地雷原で岩探し『1月前半中盤の活動報告』
1月10日
現地スタッフとのミーティングを、シェムリアップ郊外のchiko family boulder(チコファミリーボルダー)で行いました。子供たちの練習を見ながら、私自身も一緒にボルダリングを楽しみ、彼らの成長を見ることができました。
印象的だったのは私の動きをジッと子供たちが見ながら何か相談している様子でした。私が登った後、彼らの動きの技巧性が高まります。運動において最強の能力とはコピーです。真似したい動きを目で見て脳内イメージを作り、言語化によって再現性を高める。彼らの能力が非常に高いことが分かります。
ボルダリングの後はアンコールクライマーズネットの現地主要メンバーと共に夕食をとりながらミーティングを進めます。現地のメンバーと話を進めていく中で浮かび上がってきた課題は3つ。
1、アウトドアクライミングの経験や情報が少ない。
2、年長者が週末のアウトドアクライミングに行ってしまうと指導者役が居なくなり、その下の世代の子供たちの教育が疎かになってしまう。
3、大会向け練習とリスク回避トレーニングのための7m程度のクライミングウォールの建造が必要。
そして、これらを解決していくために、18日と25日の午後5時から1時間、スライドショーなどを含めワークショップを行うことにしました。そして月1回のアウトドアクライミングツアーも並行して開催。これは課題1にアプローチしています。
課題2は、まずはアウトドアクライミングの経験(課題1)を積んだ上で、子供たちのフィーリングを見ながら、どういった練習をしていくのかを決めます。その理由は、インドアクライミングで必要なリスクマネジメントはそれほど多くありませんが、アウトドアクライミングではリスクの要素が多岐にわたるため、より専門的な教育が必要になるからです。
課題3は、アウトドアクライミングの安全教育と、コンペティションの練習のために、重要な課題ですが資金が準備できないことが障壁となっています。今すぐに理想のものを作ることは出来なくても、私たちの滞在中に今あるボルダリングウォールを使用して、できる限りのレッスンを行う予定です。
平日は、スライドショーと授業の資料を作ったり、カンボジア各地の情報を集めて過ごしています。
1月18日
午後5時から6時まで、スライドショーを含めたクライミング世界史授業を行いました。
4時半ごろからカンボジアのテレビ局が取材に来てくれました。が、私のおぼつかない英語で正しく伝わったかどうかは甚だ疑問です。バランがうまく汲み取って翻訳してくれたと思います。
スライドショー参加者はバランが名簿を作って出席をとり、広告用の宣伝媒体は市内でナースを務めるテビーが作りました。ちなみに、これらの活動に関しての指示は一切出していません。彼らが自分達で決めて行動しています。この辺が最初の頃と大きく違う部分で、意識レベルの進歩を感じています。
パリ和平協定が結ばれ、正式に戦争が終結したのが1991年。終戦からわずか33年しか経っていません。しかもポルポトはカンボジアの文化や文明を狙って破壊した。クメール人の置かれた状況を説明するとき「厳しい」という一言ではあまりにも軽い。そんな中、自分で考えて自分で文化を醸成することに意欲的に参加する彼らを見ていると胸が熱くなります。
スライドショーの様子は後日YouTubeにアップする予定です。スライドショー終盤にジェームズが「君たちはまだ小さな世界しか見ていない。でも世界は広い」と、補足をしてくれました。
スライドショー終了後、バランのリードクライミング壁の建築案を聞かせてもらいました。彼の熱量が強く、お金がとてもかかりそうですが、彼はさまざまなパターンの中から最適解を探っているようなので、私もとことん付き合おうと思います。こういう経験はだいたい将来生きてくるのです。
今回のスライドショーで強調したことがあります。それは「私が話すことが全ての正解ではないし、私の意見だけを参考にルールを作るのは危険だ。そのためにチームが必要で、相対的にものを見ることを怠らないように」というやや難しい概念の話です。1人の意見に全員で依存することは戦争をも引き起こしかねないのです。
1月20日
シェムリアップより北へバイクで1時間半ほど移動した場所にあるボルダリングエリアに行ってきました。週末に行われる子供たちのアウトドアツアーの下見です。この場所はカナダ人クライマーのジェームズが見つけました。彼はプノンペンでクライミングジム「プノムクライム」のオーナーをしています。
今回ジェームズが案内してくれたこの場所はスバイルーという村にあります。この場所はコロナ前、まだ地雷の多く残る地域ということで私自身は開拓を避けていた場所でした。しかし、コロナ期間中この村から山を貫く綺麗な舗装路ができたことにより、アプローチが比較的安全になったということでした。
ボルダリングエリアは、地主の農夫が管理をしていてとても綺麗です。2000リエルほどの入場料を支払うことで利用させてもらいます。岩の強度もあり、下地も平ら、農夫が草刈りをしてくれているのでエリア内の移動も楽。そしてエリアは柵で囲われているため子供たちの安全面も心配ありません。早速ACNカンボジアのメンバーであるバラン(彼は私の活動の多くの部分をサポートしています)に報告と予算の算出を指示しました。
午後は、ボルダリングエリアから北東に聳えるプノムクーレンのロックバンドに行ってみます。この場所は当時であったら絶対に近付かなかった場所です。何故ならコロナ前は、タイ兵とカンボジア兵が何度か銃撃戦を行なっているばかりか地雷が多く残り、また噂によるとゲリラ兵の残党もいるとのことでした。
ロックバンドへ向かう山中では今まさに地雷の処理活動中で、おぞましい数の地雷注意看板を目にすることができます。この下見中に近くで地雷の爆発音が聞こえ、その直後に黒煙が立ち上るのが見えました。
近隣の村では子供たちが森の中を走り回り、いつ地雷を踏んでしまうかとヒヤヒヤしてしまいますが、ジェームズ曰く子供たちが地雷を踏んだという話は聞いたことがないとのことです。地雷はかかる重量によって起爆の調整をします。子供の体重では反応しないだけかも知れず、いずれにしてもこの場所に子供たちを連れてくることは出来ません。
岩場は一見すると硬くクライミングに適しているように見えますが、非常に大きなブロック状になって数年おきに剥がれ落ちているとのことです。おそらく雨季の影響でしょう。岩は危険、地雷も危険、アプローチはジャングル、ということで今後の開拓の可能性も限りなく0に近そうです。