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気がつけばお酒を止めていた話 その5

「有り難うね。気をつけて」
明るく手を振る祖母が見えなくなるまで手を振って、前を見た。

……さて。

長すぎるドライブになるはずだった。でも今思えば、2017年のこの時長いようで短い時間こそが、お酒への執着が切れていく分岐点だったのだと思う。

浜の祖母の家から実家までの数時間に及ぶ道のりのハンドルを握るのは、私の母。
なんと60歳近くなってから奮起して車の運転免許を取ったのである。

物心つけば何かとぶつかっていた母親と車内で二人きり。
無口なのはそのせいだけでは、ない。

それなりに賑やかな街中を抜けて郊外の複数車線で信号待ちが入った時、母は傍らの紙袋から新聞紙に包まれた折詰を渡してくれた。ほのかに温かい。
「食べてね。お昼食べてないんでしょ? ひと月に1~2回くらいかな……こうやっておばあちゃんとこに車で身の回りのことお手伝いしに来てるのよ」

祖母は足腰は元気だけれど、いろいろ思うようにはいかないこともあるようで、同居する伯母家族が多忙な時にはサポートに入っているらしい。

「急な予定変更でごめんね。仙台空港から入るならついでにと思って」

現在関西に住んでいる私が東北の実家に帰省する時、関西の空港と仙台空港を結ぶローコストキャリアの閑散期格安チケットを購入する。ノーマルで片道約3万円の運賃が、閑散期に向けて突発的メール案内が来るセールチケットを買えば、何と片道2~5千円程で済むのだ。そこから新幹線なり高速バスなり使って実家の最寄り駅へ向かっても、まだお釣りが返ってくるほどお得なのである。

この時は、駅で新幹線のチケットを買う直前に、祖母の家の最寄の駅へ行くことに急遽変更になったのだった。

新聞紙の包みを開くと、細く刻んだ昆布が入った五目おこわだった。
「ありがとう……でももう少し経ってからにしようかな」
折詰に輪ゴムをかけ直して、膝の上に載せた。
正直……

「ビックリしたでしょう?」

2011年3月11日14時46分。そしてその後の度重なる余震。
あの大地震で被災した祖母の家は、津波は免れたものの半壊だった。
その後、公共の補助を得て修理工事が入った。その甲斐あって生活空間の何部屋かはきちんと整えられていた。

……が、一枚襖を開ければ崩れた荷物の山が寄せられたままだった。

「おばあちゃんね……『せっかく棚に上げても余震でまた落ちてくるかもしれないから』って言って、もうずっとあの部屋に荷物を寄せたままなのよ……」

その気持ち、わからなくはない。

ざっくり大きな交差点に着いた。
有料の高速道路の入り口へ向かう……かと思いきや、母はまさかの旧道へハンドルを切った。
東日本大震災の被災者は、申請すれば高速道路料金割引や免除の書類が出たはずだ。
母を見ると、ふふっと微笑んでいた。
「今日は、こっちの道」

って、この軽自動車で旧道のあの峠を攻めるのかい……
私はシートベルトを締め直した。

旧道は、幼い頃と全然変わっていないように見えた。
相も変わらず折り返すような連続する上り坂が続く。
昔と違うのは、前後にほとんど他の車が来ない。たまに後ろから来たかと思えば、母は先に行くようサインを送る。その繰り返しだ。

「懐かしいでしょ?」
そう言いながら、母はアクセルを更に強く踏み込んだ。

思い出した。
「あの時の車はマニュアルで年季入ってたからねぇ……」
小さい頃だった。盆前になると、父が運転する車に乗って母の実家へお早参りに行くのがお約束だった。この峠に差し掛かっても騒ぎ続ける私達は、運転席の父からよく叱られたものだった。


「高速道路使うと割とすぐ着いちゃうじゃない? いろいろ思うことがある時は、やっぱりこっちの道を通るのよ……」

峠をふと見下ろすと、下を流れる沢は相変わらずに見えた。
いや、そう見えただけなのかもしれない。
「……あの日はありがとうね。お父さんも私たちも皆、あんなこと思いつかなかった。」

2011年の3月11日の14時46分以降、東北地方への電話は混線でずっと話し中だった。
「ケータイのメールの方が確実に連絡が取れる」と周囲の阪神・淡路大震災の経験者の方々からの助言もあって、家族の携帯電話のメルアドへそれぞれ安否確認のメールを送った。
実家の家族とは、夜22時過ぎに全員無事のメールが届いた。
でも、浜の方に住む祖母たちとは連絡が取れていないと母は言った。
実家は内陸だが、祖母達は浜の方に住んでいたので津波に巻き込まれたかもしれない……

それで私は、検索サイトのGoogleがネット上に急遽開設した東日本震災による行方不明者捜索サイトに、祖母はじめ行方不明の親戚縁者の名前を登録したのだった。
その3日後だったか、出勤直前の私の電話に連絡が入った。
10年以上前に伯母の家を出たまま連絡が取れなくなっていた従兄弟だった。
Googleの捜索サイトでヒットしたということで、連絡先だった私の電話に掛けて来てくれたのだ。
本当に飛び上がるほどテンションが上がった!

けれど、私は遠く関西に住んでいた。それに、よもやよもやのこのタイミングよ……この時の私は、今すぐ玄関を出なければ本当にマジで仕事に遅刻しそうなギリギリの瀬戸際だったのだ。
それで折り返し電話することにして、東北に住む母にバトンタッチしたのだった。
この従兄弟が荷物を積んで車で夜通し走って、祖母や伯母家族の無事を確認してくれたのだった。

「本当に……母も姉も皆無事で……本当にありがとう……」

この時、私の『母』もまた『娘』だったのだ、という当たり前のことに気づいた。

何か思い出したように母は呟いた。
「……本当にずっと仲良くしてきたのよ……それなのに!」
そう言いながら母は更にアクセルを踏んだ。
更に軽自動車が揺れた。

この時初めて、母は実家の受難の話を私に淡々と話してくれた。

私が生まれるずっとずっと前の話だ。
手広く事業をやっていた祖父は、自分のある親族とずっと育ててきた右腕とも言うべき腹心の部下に裏切られたのだそうだ。
事業も顧客も財産も全て乗っ取られたのだ……全て。
小説のようだが、事実だ。

私が物心ついた時には、祖父は隠居していた。
外孫だった私達が母の実家に遊びに行くと、たいてい祖父は内孫の従兄弟達に大変厳しく学問を仕込んでいたものだった。

母は絞り出すように続けた。
「父はとても強いひとだったのに……」

生前の祖父は、確かに押し通す強さがあった。
そして時折酒の臭いがした。現実に背を背けるように酒に溺れていたのだと思う。

私は続けた。
「強いひとほど、弱さを隠すように折れていくんだ」

それぞれの家庭の中は、謎だ。
外から事情を知ることは、不可能だ。
裕福そうに見えても、それが幸せかどうかはわからない。
幼少時の母達は、祖父にしばかれて育った。泣きながら屋根の上まで逃げても、追いかけてきてボッコボコにされたそうだ。

末っ子の母は、多忙で留守がちだった祖父との思い出があまりないという。
思い出すのは、母の手相を観るたびに溜息をついていたことだそうだ。
「ます掛け相……天下取りの手相なのに……この子が男の子だったら」
(説明しよう! 『ます掛け相』というのは、手のひらを横切る感情線と頭脳線が一直線になっている線のこと。手相占いでは、別名『天下取りの相』と言われる。大吉相らしい。しらんけど)

はっ!と思い出したように、母が言った。
「貴女もそうだったわよね!」
言われてみれば……
「そういえば、何年か前に友人と一緒に天六辺りの手相見が出来る焼鳥屋さんで観てもらった時に『見事なます掛け相ですねぇ』言われたわ」

瞳を輝かせながら、何と言われたか?と訊かれた。
「ます掛け持ちは、基本『超ゴーイングマイウェイ』
無意識で敵を作りやすいから気をつけろって言われたよ。
ます掛け持ちの信長も秀吉も、周囲の既存の関係を顧みずに楽市楽座や刀狩に太閤検地とぶっ通せたからあそこまで大きくなれた訳で……」
言い得て妙なり。
焼き鳥屋さんで手相見とは……と思ったけど、このます掛けについての解釈を伺った時は信じてもいいのかもしれないと思った。
ちなみに母も超ゴーイングマイウェイである。

「あら! そうなのぉ?」
母はちょっとがっかりしたように見えた。
「私は両手ともます掛け相持ちだけど、今のところ何もないよ……
何とか今は会社勤めだけど、順風満帆ではない世代だし、何かあった時の為にいろんな可能性を模索しておいた方がいいよとは言われたけど」
ちなみにこの時手相見のおじさんは、別の線つながりから読むに玉の輿もあるかも!と言っていた。でもな、玉の輿って気苦労が多そうだよね。私は平和に生きたいので、このことは母には黙っておいた。無い夢を見られては困る。

「あれから父はお酒で……」
母は遠い目をした。
「でもね、今回の震災の津波で……昔私達が持って行かれた物は、結局全部津波に持っていかれて……何も残ってないの……何もかもよ……」

そしてこちらをカッ!と見た。
「そういえば……訊いてもいい?」

おおっと、私に突然のターンが!

目の前にはつづら折りの急カーブが迫っていた。
どう出る?!


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芝桜文鳥
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