一万字のレポート
自分を評価されるなら、より良く評価されたい。基本的に、良い評価を下されて困ることはないからだ。では、「私」を偽ってでも、高い評価を求める方が良いのだろうか。それとも、等身大の自分に下される正当な評価の方が高い価値があるのだろうか。
綺麗事を言えば、皆が口を揃えて後者の方が良いと答えるだろう。しかし、「他人に良い評価をいただく」活動に熱心になる私は、いざ後戻りのできない場に来た時、前者を選ぼうという気に満ちていた。その上で、どうすればそれを相手に見透かされずに済むか、と思考を巡らせていた。
私は、自分が二重人格なのではないかと思ったことが何度もある。
私の外身は、向上心に溢れ、何事にも恐れず立ち向かい、諦めない強さを持っている。自負もあるし、そこから熱意も生じている。多少の不安こそあれど、そんな不安でくよくよしていられるか、踏み出さなきゃ意味がない、といった強い心持ちで、まずは始めてみて、問題が見えてから問題について考え出すような性格である。
それに対し私の内面は、本質的にリスク回避的である。失敗したら何か大事なものを失ってしまうとなれば、一歩先は崖の下の気分で、踏み出せない。自分に自信がないし、あらゆる人間は私のことなどどうでもいいと思っていると確信している。自分に対して積極性を見せてくれる人などいないので、会話は自分から始めるし、誘うのもいつも私である。そしてそれは積極性によるものではなく、偏に私に価値がないからだと思っている。言葉を選ばずに言えば、メンヘラである。
メンヘラ女はまだ救いがなくもないが、メンヘラ男はお終いだと思っている。それも私が自分の価値を見定めるための物差しを狂わせているのかもしれない。
パーソナリティ診断なんてやってみようものなら、はいでも、いいえでもある自分がいる。どちらでもないはできるだけ使わないように、と言われるし、そもそも正確に言うなら「どちらでもある」である。そうして大抵どちらかに選ばないといけないが、性格診断には信用度という尺度が存在する。似た質問が2問あれば、答えが一貫していないと嘘だと見抜かれるわけだ。私はいつも困る。怖いものなしの自分と、ただのメンヘラの自分。仕事で大事なのは前者なのだろうが、ふと立ち止まって考えた時、私の本質は後者である気がしてならない。もしこれを読んでいる諸氏の中に二重人格の持ち主がいたら、パーソナリティ診断での適切な答え方をぜひ教えてほしい。その時の観点は、選考を通過するために作り上げる虚の自分ではなく、等身大の自分を評価してくれる場所を探す真の自分を回答するものであってほしい。
「強い」自分であれば、自分に価値があるかないかなんて関係ない、価値があっても無くてもやることは価値を上げること、そして目の前に存在する課題に立ち向かうことだ、と言い切ることができる。しかし、「弱い」自分には、自分の無価値を嘆き悲しむばかりで、できることといったらせいぜい枕を涙で濡らすことくらいである。
この2つの自分は、オンとオフがあるといった感覚はない。並立している。同時に存在しているのだ。だから、私が書く文章、殊に小説やエッセイには、逆接がやけに多くなる。相反する考えはどちらも私の考えであり、私の考えを書き出すとすれば、双方を含めて初めて完成形となるのだ。
メンヘラとは正反対と言っても過言ではない私の「強い」姿は、私が高校生の時に身に付けたものである。高校生の時、私は心理学に興味を持っていた。自分の進路として真面目に検討するくらいには興味があった。
ある時、私が人を傷つけてしまい、そしてその傷つけた事実を認識できず、ついに相手から悲痛を訴えられた。私は他人の心が読めたらさぞ生きるのが簡単になるだろうと思った。そして、他人の心の中、それこそその人自身も無自覚であるような深層心理が知りたいと思って、心理学について調べ始めた。しかし、人の心を読む方法なんて心理学には書いていない。学問はそんなに単純明快ではない上に、大学受験へ邁進する高校生という身分では、学問といえるほど体系的に十分に学ぶことができたわけでもない。
私は「人を傷つけてしまい、それに自分が無自覚であった」という事実そのものにひどく苦しんでおり、人の心を読む方法を学びに行ったはずが、自分のあるべき生き方を学んでくることになった。アドラー心理学、アランの幸福論… 他にも様々あったはずだが、もうそれらは偉い心理学者の理論ではなく、私の考え方・生き方として染み付いているので、もはや覚えていない。
私の心理学との関わりは、当初想定していたよりもずっと長く、そして予想だにしない方向へ進んでいった。無意識だったものが、意識の下に置かれた。でも、私は心理学を学問として学ぶことは考えなかった。無学な自分に、心理学の「将来性」は見えなかったからだ。経営学を学んで社長になって大金持ちになるという当時の煩悩を打ち砕くほどの興味ではなかったのかもしれない。
その後大学に入ってから経営学を学ぶわけでもなく、経済学に私の思うような「将来性」があったわけでもないと知ったのは誠に皮肉な話であるが、結局私と心理学の関わりは大学の教養科目が最後だった。残ったのは、自分の中で「正しいと信じられる」生き方だった。正しい生き方なんて無限に存在することだろうから、この表現が適切だろう。
私と「メンヘラ」の出会いは、高校2年生の秋に遡る。1学年下で、物静かで、でも動いた途端それは目立つのを厭う人間の行動には見えない。はっきり言って奇人だった。高い目標を掲げて受験勉強に勤しむ私は、他人にもそのモチベーションを振り撒いていた。でも、「メンヘラ」に対して、目指すものがあるなら頑張ろうよ、と声をかけると、最初はやる気に満ちていてもしばらくすれば「私なんか…」という言葉が返ってくるような、そんな人間であった。
高校3年生の春、私自身が自分の目標と現実の乖離に苦しんでいたが、そこで私は「メンヘラ」から自己否定という術を学んでしまった。自己否定を作り他人に聞かせ、慰めを糧に生きる。相手がそれをつらく思い、私から離れていく。それさえも自己否定の材料となる。私は何を魅力的に思ったのか分からないが、それを真似て繰り返すようになった。
そんなことを続けているうちに、私は元の自分とは違う人間となっていた。自己否定を聞かせる対象は当の「メンヘラ」にも及び、彼女とは関わりがなくなっていた。私の心は明らかに弱くなっていた。
それでも私は心理学で学んだ強い心を捨てなかった。大学受験という大きな壁を前にして、自己否定を続けて負け犬になるわけにはいかなかった。私はメンヘラでありながら、同時に強い信念を持って努力することとなった。結果が伴わない時に出るものが、悔しさではなく自己否定になった。
小さい頃から負けず嫌い、順位が出るものでは常に上位でなくては気が済まない性格だった。上位にいるための努力は惜しまなかった。でも、そうして何年も上位でいるうちに自分の存在意義はテストの順位に依るようになっていたのかもしれない。そうであれば、私のそもそもの性格に、メンヘラとの親和性があったといえる。私の二重人格とも言うべき性格は、私の人生の長期均衡であるのか。
元々の私はひどく利己的であった。母からそれを指摘され、直そうとしたこともあるが、結局人生は未知のシーンばかりで構成されている以上、簡単に直るものではなかった。心理学を学んでも、メンヘラになっても、結局それは変わらなかったんだと思う。心理学は別にキリスト教やイスラム教ではないので、隣人愛や喜捨は学べない。メンヘラはそもそも、利他の皮を被った利己である。確かに他人を第一に考えることもあるが、自己否定を聞かせ始めてしまった瞬間にそれは破綻する。「自己否定をして他人に慰めてもらっている自分に対する自己否定」によって悲観はループし、他人に与える迷惑の期待値は無限大になるからだ。
そして、先述の負けず嫌いは生まれてこの方貫いて一時も休まることなく貫いている。順位としての比較可能性がなくなり、そもそも良い成績を取ることの重要性が低下した大学生活では、好成績に対する負けず嫌いは失われてしまった。それでも、比較して言い訳のない答えが出るものはどれも負けたくない思いだ。ITの基礎は何も分からない。負けず嫌いは生涯年収の見込額、バイトの時給にまで及んだ。別に顔の知らない誰かに負けても勝手だが、目の前の友人に負けるのは嫌。大学では良くも悪くも「負け慣れ」てきたが、目の前の友人達の中で最下位になろうものならやはり頭のネジが吹き飛ぶ。
私は今、心理学とメンヘラを学んだ私がそれまでと別人になったかのように書いているが、利己的で負けず嫌いという、人間の土台たる性は変わっていないらしい。
しかし、他人が自分のことをどう思っているのかは気になるものである。私にだって嫌いな人の1人や2人くらいいるが、私は彼らと関わる際に「嫌い」であるように見せることは一切しない。あたかも何とも思っていないかのように振る舞う。もちろんそこにはボロが出ているのかもしれないが、人間同士のコミュニケーションなんて大半は適当にやっているものだから、相当注意深く見なければ、取り繕った表の姿が張りぼてであると見抜くのは難しいだろう。私は心理学を学んでそれができるようになりたかった。自分のことをどう思っているか相手に聞くのは気が引けるし、もし聞いたとしても正直に話す人がどれほどいるのかは疑問である。少なくとも私は嘘をつく。
待て。私は心理学を学んでおきながら、都合の良い部分のみを人生に投影し、鼻を高くした気になっているだけでないか。私は利己的な人間である。私の二重人格は時に人を傷つける。それは私の知っている語彙で言うならば、「ダブルバインド」と言い表せるか。私の二面性、私自身が内包する矛盾をそのまま表現するから起きる問題である。私自身が内包する矛盾は、同じ顔をして同じ声帯を震わして出てくる言葉であるが故、他者からすれば完全に相反する命令であると言い切ってよい。それに加えて第三の命令を発することもあるから、私の友人に絡みつく鎖は二重で済まない。時には四重や五重にもなっているんじゃないか?
私はこの恐怖の心理手法を無意識に使っている。それを使っている自分の存在自体は感知しているが、それが出たことをリアルタイムで感知する能力は持ち合わせないらしい。そして、この恐怖の手法を出すことを強い心を以て意図的に制限したならば、私は涙を流す人間を前に慰めや謝罪の一つも言えない、動く有機物に成り下がってしまう。
私は一度だけ意識的にダブルバインドを行ったことがある。私が1年半ほど従事したアルバイトでのことだ。新しく入ってきた、いわば後輩がいろいろと問題を抱えていた。私は指導をする立場になるが、彼の抱える問題に匙を投げてしまった。周りの同僚も匙を投げていた。私は彼に指導したことが成っていないことを注意し、そして分からないことがあったら何でも聞くように、と告げた。今書きながら思ってみれば、ダブルバインドの概念を知る私が意識的に行為を行うことはただの嫌がらせにしか見えないが、私の行為の結果彼が自主的に去っていったことで、社内で特に私を問題視するといった見方は存在しなかった。事情を知らない第三者であれば、たとえば会社全体でそういった意識が腐っているに違いないなどと言って、こうやって語る私に嫌悪感を抱く人もあるだろう。会社を特定して迷惑をかけようなどと企まない限りはそれで構わない。なぜならば、この文章は決して私を良く見せるための文章ではないからだ。カウンセリングに行って嘘をついても何の解決にもならないように、見栄を張っても自分の中で思考の整理には何の効果ももたらさない。ただはっきりと述べておきたいのは、それを合理的であると考えて行動したということだ。批判を誰が受けるべきかという問題がもし発生したとして、本当のところは神にでも判断していただくべきなのだろうが、終わった話であるし、私に過失(故意?)がなかったと言い切る自信はないものだから、ぜひ私に批判を寄越してほしい。
意識的であったエピソードを明確に記憶しているほど、私にとってこの心理手法が無意識であることが恐ろしい。その手法を使う私は、制御可能なものには思えない。いや、そもそも人格の一方と相反する命令は正確に対応しない。メンヘラである時の私なら、「他人に命令をする」なんて高尚なことはできない。命令というのは語彙から逆算される命令とは異なるが、より適切な語、「意見する」あたりを当てはめたところで、私にとってその行為が到底私に権利がないようなものであるという事実に変わりはなさそうだ。つまりこれは言い訳に過ぎないのだ。向上心を持つ私は、自分の中のこの諦めを言い訳だと一蹴し、自身の性格の改善に取り組むことができるはずだ。幸いにも、今はそのインセンティブもあるから。
最初の問いに立ち返ろう。他者から評価される自分のあるべき姿である。私は、あくまで私が現在立ち向かっている課題に限ってという文脈にはなるが、正直になる選択をした。正直になって強い自分が出てくれば、それは強い自分と共に戦え、という合理的な選択である。メンヘラな自分が出てきたら…何であろうか。メンヘラな自分はそもそも出てくるのか。私の本質かどうかはさておき、情緒がしっかりしている限りは強い自分が私そのものである。恐らくこれから仕事に就いていくとなった際に、一日の活動時間、17時間のうち10時間くらいはこちらの私でいるはずだ(というか、そういたいという思いがある)。でも、内部にはメンヘラな自分もいるわけで…
結局のところ等身大の自分が一番だ、なぜならそれが自分の中で最も負担を少なく済ませられるからだ。作り物の自分を、面接の数十分維持することも大変であるというのに、それを1日最低でも8時間、長ければ12時間も維持するような職場は自分が幸せになるにはあまりにも不適切であるし、まして家に帰っても維持しなければならないような家には住みたくない。そうしないと隣にいてくれないパートナーなど不要であると考えている(どうせそんな人間、私の学歴や、今後であれば年収に対して惹かれてくる羽虫であろう。表の私は、肩書きで評価される社会は嫌いである)。
分からない。ここまでキーボードを殴って、分からない。自分が見えない。この問いに向き合い始めたのは少し前である。自分が見えないまま、今進むべき道に進んでいった。自分が見えないままであること、流石に隠すべきではないかと迷ったものの、結果的に自ら隠すかどうかを選択するまでもなく、あの若い面接官は人生経験が豊富なのだろうか?簡単に暴かれてしまった。でも、その選考はなぜか通過した。同席した複数人の学生の中で、私が一番迷いがあったのに。そして、一番コミュ力が無かったのに。何を見ているんだ、あの選考は。私は騙し騙しで成功できるような甘ったれた環境に飛び込んだ覚えはないし、実際に何度も「ウチは大変だよ?」みたいな脅しを受けた。私自身、自分を滅ぼすほどの全力に快感を覚えていた。あの同席した学生達は皆そうなのではないか。そうでない学生は、最初からあの会社に来なかったのか、それともどこかで離脱したかのどちらかであろう。でも、その時無自覚だった迷いが自覚的になった時、そしてこれを綴っている今も、企業で数々の人間と向き合ってきたような優秀な社会人から見て、私が迷いがあるように見えないはずがない。
自分の迷いの正体は分からない。ただ2つの自分がせめぎ合っていること以外は、何も突き止められないでいる。でも、幸いにも(?)その迷いを含んだ私を高く評価してくれる人がいるのである。意味が分からない。もっと自分はできると思ってもよいのだろうか?いや、それは拙い。できる自分に天狗になって失敗するのは大学に入ってすぐの段階で経験している(それがきっかけで肩書きで評価されるのが苦手なのだ)。それ以来、自分は優秀ではないと思っている。優秀でないから向上心もあり、優秀でないから自己肯定感も低い……今、無理矢理回答にならないかと作ってみたが、無理だ。優秀でないことも、この2つの自分を説明するには役立たない。
もう分からない。それでも匙を投げたくないのは、この先に正しい「自分」への理解が見えること、そして表の自分、すなわち自己分析に終わりはない、成長だ、と意識の高いことを宣う自分の存在であろうか。
答えが見えない。
本来この記事は、一万字くらい考察すれば何か見えるんじゃないか、と期待して、題名ありきで書き始めたものである。構成なんて考えているわけもなく、読者の存在なんて微塵も考えていない(そのくせ二重人格の読者にアドバイスを求めるという訳の分からないことには手を染めていたようだが)。
でも、ここまで書いて、何も分からなくなってしまった。もう3000字も書くことはないから、これでキーボードを叩く手を休めるしかないのか。
自分の考えを外側から見つめ直すのは実はかなり得意である。それが思考力の補強材となったという事実も、これまでの経験から信頼できることである。そんな私がこんなに詰まってしまったのだ。どうしたらいい。どうしたらいい。
誰かに意見を求めることとしよう。できれば負担なく対面で会える人の中で私が最も信頼を置く人にしようか。
でも、自分の中で…
自分でも知ってはいるが、諦めの悪い奴だ。
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