「多忙」は「多忘」?
最近、少し忙しい期間があった。私はちょうどその時、別件で少し心が疲れており、悲観的な気持ちになっている時間が長かった。
しかし、私は忙しい時間が嫌いではなかった。全てを忘れられるからだ。忙しすぎは逆効果だろうが、自由な時間の多い大学生活において、多少の忙しさはスパイスである。特に何かに打ち込んでいる間は、鬱ごとを少しは忘れられる。
しかし、私はその忙しい期間が一段落ついて、その「前」の自分が何か悩みを抱えていたことを思い出す。
…
……
………
「あれ、何を思ってたんだっけ…?」
数日間考えないでいたら、忘れてしまった。これを読んでいる暇な人間は、「嫌なこと忘れられてよかったじゃん」と思うかもしれないが、私には「忙しさ」が、嫌なことだけ都合よく忘れるシステムには、到底思えなかった。
何か大事なことも一緒に忘れてしまった気がした。このまま社会人になって、朝から晩まで激務をこなすようになったら、私は全てを忘れてしまうのではないか。それが怖くなった。エピソード記憶が残らない人間なんて、いくら独創的で創造性に富んでいても、ロボットみたいなものだ。ああ、私はなぜ人間なのだ。
もしかしたら、慣れない体験が続いたせいかもしれない。非日常の情報量が、日常を薄めてしまったのかもしれない。でも、非日常がないのもロボットみたいなものだ。非日常を欲して旅行に出かける人間が、毎日「日常」しかない日々に耐えられるとは思えない。ああ、日常も非日常も怖い。どうしたらいいのか。
思ってみれば、りっしんべんは心を表すから、「忙」と「忘」は同じパーツでできているのだ。生きていく者の宿命が、そこには描かれているのかもしれない。
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