言えばよかった
言えばよかった
この数日、朝比奈さんの様子がどうもおかしい。
目の前に置かれた湯気の立つ湯呑をじっと見つめて、それから俺は、そっと横目で朝比奈さんを見た。ハルヒに満面の笑みで湯呑を差し出している彼女を。
できれば触ってみたいと思う栗色の髪は、今日もふわりとして柔らかそうだった。幼さの残る顔立ち、ハルヒと言葉を交わして微笑みをこぼす度に、俺は思わず見惚れてしまう。いつものメイド服も、よく似合っている。
見た目にはいつもと変わりはない。
それなのに俺は、どうも変だ、と感じてしまう。なんとなく物腰がいつもよりも落ち着いているというか、大人っぽくなったというか。先日もハルヒのセクハラをさらりと受け流し、たしなめたのだが、その様は、ただ悲鳴を上げていた以前と打って変わって余裕のある年上らしい姿だった。
最初に違和感を覚えた時に、俺は古泉に相談した。だが奴は、そうですか? とただ首を傾げるだけだった。次に相談した長門は、朝比奈みくる本人で間違いない、と俺の言葉を一蹴した。長門がそう言うのならばそうなのかもしれない、と思ったのだが、どうしても納得しきれなかった。それとなくハルヒにも聞いてみたが、案の定ろくな答えは返って来なかった。大人の階段を上ったんじゃない、などと言った時はぶん殴ってやろうかと思った。
SOS団でおかしいと思っているのは俺だけらしい。鶴屋さんにも聞いてみたいところだが、間の悪いことにインフルエンザにかかってしまったらしく、ずっと休んでいる、とのことだった。
おかしい、と思っても、それを証明する手段もなく。俺はただ一人悩むしかなかった。いっそのこと、思い切って聞いてみようかなどと思うものの、残念ながらその機会が訪れなかった。二人だけで話そうにも、なにかにつけてハルヒが割り込んでくるものだから、二人きりになれる時がなかったのである。
しかたなくただぼうっと朝比奈さんを眺めるしかなかったその時――
「どうぞ、あなたの番ですよ」
聞こえてきた声に、俺は意識を引き戻された。向かいに座るニヤケ面にと。先程までずっと考え込んで、眉間に皺が寄っていたのだが、今は余裕がありそうな顔をしている。かなりの長考だったわけだが、これで挽回できるといいよな。
「もちろん僕はそのつもりです」
そうかい、と応えて俺は盤面を見た。もう何度目なのか数えるのも嫌になるくらいやっているオセロ。既に四隅のうち三つは俺が取っている以上これから挽回もクソもないもんだと思うのだが。盤面からもう一度古泉の顔を見る。ニコニコと笑っている古泉の顔。俺は無言で、自分の石をつまみとった。そのままパシリと、盤面に打つ。満面の笑みだった古泉の表情が、ピシリと固まった。そのままパタパタパタと、古泉の石を裏返していく。
「さ、存分に考えてくれ」
あっという間に俺色に染まった盤面を見て、古泉の表情が崩れていく。
「……ぐう」
古泉はうめき声を上げて、目を細めてかぶりつくようにじっと盤面を凝視し始めた。
俺は小さく溜息をついた。さっさと投了すればいいだろうに。胸中でぼやいていると、背後で可愛らしい声が上がった。
「お水、汲んできますね」
さっき淹れたばかりであるのに、また淹れてくれるらしい。朝比奈さんについておかしいことといえば、お茶を淹れるペースが早い、というのもある。いつも以上に楽しそうにお茶を淹れているように見える。これも、俺しか認識していないのであるが。
やかんを持って、朝比奈さんは足取り軽く、文芸部室を出て行った。気をつけて行ってくるのよ―、と言うハルヒに、はーい、とこれまたかわいらしく答えながら。
「……」
もしかしたら、ちょうどいい時機なのかもしれない。ハルヒはなにやらパソコンに向かっているし、古泉はついに頭を抱えて唸り始めたし、長門はいつも通り本を読んでいるし。
迷っている時ではないようだった。俺はすっくと立ち上がった。朝比奈さんを追いかけるべく、心は慌てているが、それを外に出さないように注意しながら、
「トイレ行ってくる」
努めて平穏を装って、そう言って俺は文芸部室を出た。誰も何も言わないのに、なんとなく思うことはあるものの――まあトイレに行くというだけの奴にそもそも言葉をかける奴なんて居ないだろうとすぐに思い直して――俺は廊下に出てすぐ、朝比奈さんを追いかけた。幸い、朝比奈さんはすぐに捕まった。
「朝比奈さん」
声をかけると、彼女は足を止め、ゆっくりと振り返った。きょとんとした顔で、こちらを見てくる。
「キョンくん?」
形の良い唇が俺の名を呼ぶ。それだけなのに何故か妙に胸が高鳴って、俺は一瞬言葉に詰まった。
「あ、いや……」
そんな俺の様子を見、にこにことしながら、朝比奈さんは、どうしたの? と、首を傾げた。
「……ええと。ちょっと、お話がありまして」
「?」
「ここじゃなんなので、ちょっと向こうで」
言いながら、俺は視線で階段の方を示した。朝比奈さんは、未だきょとんとしつつも、わかりました、と言った。
朝比奈さんを連れて、階段を上る。屋上の出入口。屋上への扉は施錠されており、それもあって、まず誰か来ることはない。朝比奈さんと二人だけで話をするのには、ちょうど良かった。
「お話って、なんですか?」
朝比奈さんが問うてくる。後ろ手にやかんを持って。若干頬が赤くなっているように見えるのは何故だろうか。気になりつつも、俺はその問いに答えた。
「何か、あったんですか?」
「……」
若干の間を空けて――ぽかんと口を半開きにして呆然としてから――朝比奈さんはかわいらしいけれど、どこか間抜けな声を上げた。
「……はい?」
「あー、すみません」
流石に、直球すぎた。目を細めて、なんとなく不満そうにこちらを見つめてくる朝比奈さんに、俺は慌てて口を開いた。
「そのですね。ここんとこ、なんか、朝比奈さんがいつもと違うなー、なんて思ったもんですから」
「……」
「だから、なんかあったのかなーって……思ったんですけど……」
言いながら、俺は少しずつ朝比奈さんから視線を逸らしていった。
朝比奈さんの視線が怖い。まるでこちらを睨むような目つきだった。不満、不機嫌――どう言えばいいのかわからないが、とにかく、あまり面白くないって感じの顔だった。
俺、なんかやっちゃいましたかー、などと言いたくなってしまったが、その言葉は飲み込んで、とりあえず、完全に明後日の方を向いて、朝比奈さんから顔を背けた。
「……」
朝比奈さんは無言だった。何も言わなかった。何も言わずに、ただ俺のことを睨んでくる。
「……そんなに、いつもと違いますか?」
不意に飛んできたのは、そんな問いだった。朝比奈さんの方を見ないまま、俺は答えた。
「違う……と思いました」
「どんな風に?」
「その……」
朝比奈さんに視線を戻す。
どう言おうか少し迷い、無意識のうちに宙に指で何かを描こうとしているのに気づいて、慌てて、手を下ろす。視線を彷徨わせながら、言葉を探す。だが、自分自身でもなんとなくでしか感じていないことを、明確な言葉にすることはできなかった。
「妙に大人っぽくなったっていうか、落ち着いてるというか」
結局のところ、なんとなく、というようなことしか言えない。案の定、朝比奈さんは納得がいっていないようだった。
「あたし、これでも年上ですよ?」
少々、怒っているような声だった。再び彼女から視線を逸らす。
「それは、そーなんですけど……」
ぼやき、そして、自分でもこれはないよな、と思いつつ、続ける。
「より年上っぽいというかなんというか」
「……」
横目でちらりと朝比奈さんの方を見やる。
すると朝比奈さんは、はぁ、と大きく溜息をついた。先ほどまでの不機嫌顔から一転、酷く落ち込んだ顔になって、
「……こんな時ばっかり鋭いっていうのはどうかと思うんだけどなあ……」
ぼそっと、そう、つぶやくように言った。
「どういう意味です?」
朝比奈さんの方に向き直って尋ねると、朝比奈さんはまた、溜息をついた。
「そのままの意味ですよ」
「へ?」
「キョンくんの言う通りです。何かはありました。今ここに居るあたしは、先週とは違うあたしです」
「え?」
「細かく説明するとややこしいことですけど、とりあえず今、あなたの目の前に居る朝比奈みくるは、もう少し未来から来た方の朝比奈みくるです、と言えば、わかってもらえますか?」
「………………はい?」
まじまじと眼前の朝比奈さんの姿を見つめる。上から下まで。下から上まで。何度も何度も。
「え? え?」
目を白黒させる俺に、朝比奈さんは困ったように苦笑いした。
「大人になった、朝比奈さん、なんです?」
「ええ。一応」
「え、えええ?」
でも、その――
混乱しきった頭、人差し指で彼女を指差すと、彼女はやはり苦笑して、
「この姿ですよね? それは、禁則事項です。未来人は、色々できるんですよ」
「は、はあ……」
目を細めて、朝比奈さんを見つめる。それ以外に反応のしようがなかった。
俺が何も言えないでただ呻いていると、朝比奈さんは、こほん、と咳払いをした。
「ちょっと色々ありまして。研修、といえばいいんですかね。高校生の方のあたしはちょっと一時的に未来に帰らないといけないことになったものですから。その間の代理として、わたしがこうしてここに来ることになったわけでして」
「は、はあ……?」
呻く。何が何だかよくわからない。
「禁則事項で姿を変えてこうして高校生のフリをしてたんですけど……キョンくん、よくわかりましたね」
「え? あ、はい……」
理解が追いつかない、というのは、こういうことを言うのだろうか。
大人の朝比奈さんが、なんかよくわからない未来人のアレで、高校生のフリをしていた?
そりゃあ、年齢が違うだけの本人だから、バレるってってこともないんだろうけれど。
「いや、しかし、それにしたって」
「なんです?」
にこりと微笑みながらどこか怒気を感じさせる朝比奈さんに、俺は、自分がうっかりと声に出していたことに気づいた。俺は慌てて口を押さえ、言葉を飲み込んでから――無理があるんじゃないですか、という言葉をだ――、誤魔化しの愛想笑いを浮かべた。
「なんでもないです」
「……」
頬を膨らませ。ぶすっと、朝比奈さんは口を尖らせた。どう見ても、怒っていらっしゃるようだった。
ここまで怒る朝比奈さんというのも、実に珍しい。普段全然怒らない人なので、ここまで機嫌を悪くしているところは、なんとも新鮮な感じがする。
と、そんなことを思っても仕方がない。話題を変えるなりして、お怒りモードを解いてもらわなければ。
「しかしその、研修、ですか? 未来へ戻ったってのはわかったんですけど、それでなんで大人の朝比奈さんが高校生のフリをする必要があるんです?」
と、話をそらすつもりで、状況を飲み込んだ上で生じた疑問をぶつけてみる。すると朝比奈さんは、ぴく、と反応してから、ゆっくりと俺から視線をそらした。
「……」
さらにうつむき、口をきゅっと結んで、押し黙る。
え、何この反応。言いにくいことなのだろうか。大人になって、色々できるようになったと言っていたけれど、やはりまだ未来人であるがゆえに言えないことがやはり――
「……あなたに」
つぶやく声が聞こえた。
「え?」
と声を上げた時にはもう、朝比奈さんは俺に迫ってきて、上目遣いに俺のことをまっすぐに見つめてきていた。
「あなたに、会いたかったの。キョンくんの傍に居たかったの。昔みたいに」
紅潮した頬、熱っぽい視線。潤んだ瞳に、吸い込まれていく俺。
どきりとした。とんでもない美少女が――美女か?――俺にそんなとんでもない爆弾発言を。
会いたかった、傍に居たかったって。そんな顔して、迫ってくるなんて。つまり朝比奈さんは、俺のことを?
なんてことを高速で考えて、思わずそれに応えようと腕を広げて彼女のことを抱きしめ――かけた。
抱きしめかけたその時、朝比奈さんは身をひるがえしてくるりと俺に背を向けた。
「なーんて」
「……」
朝比奈さんが振り向く。悪戯っぽい微笑みを浮かべて。
「言うと思いました?」
「…………」
大人って。
大人って、さあ!
呻いて、俺は半眼になって朝比奈さんを見つめた。弄ばれた、という怒りと悲しみが沸き上がって俺の眉間の皺を濃くした。
「さっきのお返し、です」
そう言って、朝比奈さんはウインクした。ぎこちなくない、かわいらしさ満点のウインク。一瞬で怒りが解けるくらいの、とんでもない愛くるしさに、胸が高鳴ったが、表情だけはなんとか死守した。頬が少し熱い気がするが、まあ、バレてはいい。
ふふ、と彼女は微笑む。俺の内心を、見抜いているかのように。
かわいい。
どうしようもなく、そう思った。
「それにしても本当に、よくわかりましたね。わたしの様子がおかしいって」
「……なんとなくですよ」
口を尖らせたまま、俺は少しぶっきらぼうに答えた。
「なんとなく、違うなって。誰も、信じなかったですけど」
長門は気づいていたのだろうが、とは言わないでおく。あいつの言うことは。間違ってはいなかった。確かに本人だ。本人が本人のフリをしていただけだったのだから。言葉が足りなさすぎるだけで、あいつもわかっていた。ちくしょう、長門め。今この場に居ない長門に、心の中でたっぷりと呪詛を送――ろうとして、なんか怖いからそれは止めておく。文句の一つは、後で言っておいた方が良さそうではあるが。
俺が長門への文句を考えていると、また、朝比奈さんは微笑んだ。
「そっか。なんとなく、か」
彼女の微笑みは、どこか自嘲しているように見えた。自嘲するかのように、寂しい、微笑みだった。
「……やっぱり、違うのね」
つぶやくような声。その声はまるで、泣くのを我慢しているような声に聞こえた。
「なんです?」
その悲痛な声は流石に看過できなくて、俺は問いかけた。
「違うって、何がです?」
「あ、ううん――」
彼女はぎょっとしたように目を丸くしてから、慌てた様子で首を振った。
「なんでもないの。ちょっとその――やっぱり、大人になったんだなあって思っただけだから」
「……はあ」
こめかみを人差し指でぽりぽりと掻く。よくわからないが、朝比奈さんなりに何か思うことがあったのだろう、ということで納得しておく。微苦笑を浮かべる朝比奈さんに、やはりなんとなく引っかかるものがあるが、何も言えず、ただ彼女の顔を見つめる。
と。
不意に朝比奈さんが弾かれたように声を上げた。
「あ! そろそろ戻らないと」
「え? あ、そうですね」
思わずきょろきょろと時計を探して――探してから、そもそもこの場所に時計がないことに気づいて、俺は自分のうっかりさを恥ずかしく思った。幸い、朝比奈さんは俺のうっかりには気づいていないようだった。そのまま、二人で階段を降りる。降りながら、朝比奈さんが言った。
「先に戻ってください。お水汲んでから戻りますから」
「はい」
階段を降り、元の階までもう少し、というところで、朝比奈さんは足を止めた。
「キョンくん」
「なんです?」
同じく足を止め、彼女の方を見やる。
彼女は俺の顔を見、言った。
「明日には、戻ってきますから。あなたの朝比奈みくるは、明日、戻ってきますから」
微笑んで、彼女はそう言った。だから心配しないでね、と付け足して、彼女はそのまま階段を降りて行った。
廊下に降り、またあとでね、とばかりにこちらに手を振ってくる。
「……」
俺は何も言えなかった。朝比奈さんは俺の返答を待たずに、そのままぱたぱたと駆けて行った。
俺は無言のままその場に少し立ちつくして、それから、部室へ戻った。
戻ったら、案の定ハルヒに今にも射殺さんとばかりに睨まれた。何をしてたのか根掘り葉掘り聞かれた。朝比奈さんが戻ってくると、今度は朝比奈さんも加えて、なんで二人して遅かったのかとねっとりしつこく刑事ドラマの敏腕刑事のごとく尋問された。やたらしつこいハルヒの追及に、俺は心底うんざりしたものの、朝比奈さんの方はどことなく、楽しそうだった。
翌日になって。
昨日の言葉通り、今日の朝比奈さんは、ちゃんと高校生版の朝比奈さんのようだった。俺の朝比奈さん。俺の知ってる、俺だけの朝比奈さん。この数日のことは、彼女の中ではどういうことになっているのだろう。本人としては学校を休んでいたことになっているだろうに、どういう扱いになっているのやら。
だが、俺は何も聞かなかった。俺の頭では、どう聞こうにも、どうしたって大人版朝比奈さんに触れなければならなくなりそうだったからだ。それにどうせ、また、禁則事項、ってやつになるだろう。それだったら別に、聞かなくてもいいさ――俺自身もうすっかり、未来人の禁則事項とやらに、慣れきっていたのだった。
そんなことを考えることすらどうでもよくなるくらいに、今日も朝比奈さんはかわいらしい。何かいいことがあったのか、ご機嫌な様子で、鼻歌交じりでお湯が沸くのを待っている。
愛らしい彼女の姿と、愛くるしい彼女の歌声を聞きながら、俺は、昨日の、あの階段での彼女の顔を思い出していた。俺の朝比奈さんは明日帰ってくると言った時の、あの、彼女の顔を。
微笑んだ顔。しかしどこか悲しくて、寂しくて、切ない、彼女の、笑顔を。
――あなたの朝比奈みくるは――
俺はあの時、何を言えばよかったのだろう。どう返すべきだったのだろう。彼女の言葉に、俺は、どう応えるべきだったのだろう。何も言えないまま彼女との話が終わり、そして、彼女は何事もなかったかのようにまた未来へと帰っていった。
本当に俺は、あれで、良かったのだろうか。
胸の中にいつまでも残るこの問いに――俺は奥歯を噛みしめ、口中に広がる苦味に、静かに、目を閉じた。
大人になった自分と、少女の頃の自分。同一人物であっても、目の前の相手にとってはどうしても別人になってしまう。同じ時を過ごしていた自分こそが彼にとって、と。好きな人と自分とのどうしようもない距離という切なさを描きたかったのです。