物語の主人公になるのか? ~それとも村人になるのか?~
この世界には、
二種類の人間が存在するよ。
それは、
主人公になれる人と、
村人で終わる人だよ。
分かりやすく言うのなら、
村人とは、3次元にいる人達。
主人公とは、4次元にいる人達のことだよ。
3次元と4次元の違いは、
限界を儲けるのか?
それとも、
限界を儲けないのか?
の違いだよ。
更に噛み砕くのなら、
限界を越えて、
レベルアップできるかどうか?の違いだよ。
ちなみに、
今までの時代は、
限界を越えてる様で、越えていなかった時代だよ。
だから、
今までの時代で成功している人ほど、
この意味は、分からないものになるよ。
裏の裏を知ることが、
限界を越えることで、
裏技を得ることが、限界を越える鍵で、
裏技とは、何処までも噛み砕ける力を指すものだよ。
その裏技のことを、
一体化(4次元)の神秘、
って言うんだよ。
だからね、
3次元の世界は、限界があるからこそ、
途中でレベルアップが終わり、
4次元の理解は、限界がないからこそ、
レベルアップに制限がないんだよ。
分かりやすく言うのなら、
物質的(3次元的)な理解は、限界を作り、
神秘的(4次元的)な理解は、限界を作らない。
3次元の罠が、レベルアップを不可能にし、
4次元の理解が、レベルアップを可能にする、
ってことだよ。
この違いが、
主人公と村人の違いになるよ。
主人公は、枠を自身の力でこじ開け、
村人は、安定を求めて、枠の中で生きることを選ぶ。
なので、
どちらを選ぶのかは、
各自の選択に委ねられるよ。
生き方は人それぞれだからね。
それを分かりやすく、
今風に言うとね、
簡単に理解できることは、
上辺の理解で、
上辺の理解のことを、
3次元の理解。
簡単に理解できないことは、
深層の理解のことで、
深層の理解のことを、
4次元の理解、と言うよ。
上辺の理解とは、頭だけの理解のことで
頭だけの理解を、3次元と言って、
深層の理解とは、体現の伴う理解のことで、
体現の伴う理解のことを、4次元と言うんだよ。
この違いが、分かるかな?
頭だけの理解と、体現の伴う理解ってね、
似てるようで全然違うんだよ。
例えるなら、
ダンスを踊れる人と、
ダンスが踊れない人が、
いるとするよね。
この二人がね、
ダンスの話をするとするとね、
どうなると思う?
直ぐにね、
ダンスが踊れる人は、
ダンスが踊れない人って理解できるんだよ。
これは、
ゲームで例えた方がもっと、
分かりやすいかもね。
やったことのないゲームを、
上辺の説明だけ聞いて、
頭の理解だけで、ゲームを語る人、
実際にゲームをプレイして、
中身を体験して、ゲームを語る人。
これって、確実に違いが出るよね。
どういう違いが出るのか分かる?
実際にゲームをプレイした人はね、
実際にゲームをプレイしていない人よりも、
より、具体的にゲームの内容を語れるんだよ。
それがどういうことをなすのか分かる?
ゲームの中身を語れる、ってことだよ。
その中身を語れることを、
4次元の理解と言って、
外見だけを語ることを、
3次元の理解と言っているんだよ。
ちなみに、
今の世界で行われていることは、
全てが外見の話だよ。
本当にこの区別ができてるかな?
中身の話はね、自身の体現と共にレベルアップすることで、
外見は、体現の浅い頭だけのレベルアップにしかならないんだよ。
この違いが物凄く大きくて、
頭だけのレベルアップのことを、3次元、
体現の伴うレベルアップのことを、4次元、
と言うんだよ。
その4次元に到達しないと分からないことが、
この世界の真理そのものなんだよ。
更に細かく噛み砕くとね、
3次元の学びを、学問だとすると、
4次元の学びは、非学問で、
学問そのものを生み出すものになるよ。
だからね、
2つは、似てるようで、
全然違うんだよ。
しかもね、
外見(学問)を知ることには、限界があって、
中身(非学問)を知ることには、限界がないの。
何故なら、
本来は、
中身(非学問)から外見(学問)が生まれていて、
中身を知ることが、
全てに繋がっているからだよ。
その全てを知ることが、
レベルアップすることで、
中途半端に知ることが、
レベルアップを妨げるとになるんだよ。
分かるかな?
だからね、
中身とは、答えで、
外見とは、答えを導くもので、
言い換えるのなら、
中身は、ソースで、
外見は、ツールってことだよ。
そのツールをいくら追っても、
答えは、原型に還らず、
形のまま終わるってことだよ。
形は原型に還せてこそ、
答えになるってことだよ。
その答えを得ることが、
しいては、
レベルアップに繋がるってことだよ。
だけどね、
殆どの人達は、
偽者のレベルアップしかしてなくてね、
本当のレベルアップを知らないんだよ。
偽者のレベルアップってね、
1つのことを極めることだよ。
しかもこのレベルアップも、
真理を得てないと本当の意味では、不可能なんだよ。
言い換えるのなら、
1つのことだけ極める人を、一流って言うんだよ。
本当のレベルアップってね、
全体を極めることで、一体化することだよ。
一体化することこそ、
超一流なんだよ。
これが、
本物と偽物の違いだよ。
ちなみに、
一体化とは、
物質と空間を重ねることだよ。
物質と空間を重ねることは、
大は小を兼ねるんだよ。
この意味、分かるかな?
大きさではなく、小ささこそ、
本当のレベルアップで、
大きさからレベルアップを得ることは、
外道で、
小ささからレベルアップを得ることが、
神道なんだよ。
言い換えるなら、
闇(物質)から力を得ることが、外道で、
光(一体化)から力を得ることが、神道なんだよ。
この違いを分かってない人が、
多すぎるね。
物質的な理解に囚われてる人が、
多すぎるね。
無自覚に誤魔化してる人が、
多すぎるね。
だからね、
全てはこれと同じことで、
4次元をいくら頭で理解しても、
レベルアップしないってことだよ。
頭の理解は、
3次元の理解が深まるだけで、
4次元には、関係ないんだよ。
だから、
あまり意味がない、って言ってるんだよ。
3次元と4次元の関係は、
全く別次元の話だってことなんだよ。
その別次元のことを、
同じこととして話しているのが、
現代だってことだよ。
別次元のことってね、
理解の在り方が逆転してることを、
言うんだよ。
だからね、
決して簡単には分からないし、
伝わらないんだよ。
だからね、
中身(4次元)を知っている人からしたら、
外見(3次元)をいくら知っていても、
たいした意味もないことが分かるんだよ。
物質優位な世界だからこそ、
3次元の学びは、価値があったけど、
これから先の世界は、
3次元の世界線ではなく、
4次元の世界線になるんだよ。
その4次元の世界線のことを、
理想郷の世界、と言っているんだよ。
理想郷とは、自身の力だけでも、
レベルアップできることを、
指しているんだよ。
それは、
精神文明主体の物質文明になるってことを、
意味しているんだよ。
だから、
4次元の理解を知らないと、
話しにならない、ってことだよ。
まさに時代の先駆けは、
4次元の理解なんだよ。
時代の波は、もうそこまで来てるんだよ。
ちなみに、
頭で語るのではなく、
心で語れないと、知っていることに、
ならないよ。
頭で語ることは、3次元(不完全)のこと、
心で語ることは、4次元(完全)のことだよ。
分かりやすく言うなら、
抽象的なことを心で語れるからこそ、
そこには、
確かな理解しかない、ってことだよ。
頭の理解は、不確かなことを語れないからかそ、
不完全で、
不確かなことを、確かな様に語れることが、
完全ってことだよ。
頭だけの理解は、これができないからこそ、
浅いってなるんだよ。
分かるかな?
これが分からない人は、
3次元の理解の罠にハマってるよ。
頭で語るのが、3次元レベルで、
心で語るのが、4次元レベルなんだよ。
意味が分かるかな?
だからね、
本当にいくら頭で理解しても、
仕方がないってことなんだよ。
頭で知ることはきっかけでしかなくて、
きっかけを形にするには、
行動しかないんだよ。
行動を重ねて、
体現レベルを深めるしかないんだよ。
それが、
心で語ることを、可能にするからだよ。
そう考えるとね、
どちらが不完全で?
どちらが完全か?
良く分かるハズだよ。
理解の在り方が、
逆転してるのが現代だよ。
分からない人は、
よ~く、考えて見てね。
だからね、
いっくらしっかりこの文書を頭で理解できたとしても、
あんまり意味がないんだよね。
それはスタートラインに立てただけだからね。
頭で理解できることはね、
ゲームで例えるなら、
村人に等しくて、
体現で理解できることが、
主人公になることに等しいことだよ。
だからね、
村人で終わりたいのなら、
3次元の理解で全然良いけど、
主人公になりたいのなら、
4次元の理解は、
どうしても必要になるんだよ。
ダメなことはね、
3次元の理解で、さも分かってる風に、
4次元の理解を語ることだよ。
それは本当に迷える人を作るだけだから、
本当に辞めてね。
だからね、
理想を語りたいのなら、
なるべきものは、
主人公ってことだよ。
自分らしく生きたいのなら、
主人公になるしか、
道はないってことだよ。
逆に、
主人公になれない人が、
何かを教えることは、
そもそも筋違いってことだよ。
見せて、聞かせて、教えることは、
体現が不可欠だからね。
主人公ってね、
自身の力で、
闇を越えるからこそ、主人公になれるものなんだよ。
そこに価値があるからこそ、
主人公であり、
勇者にもなれるんだよ。
だからね、
そういう闇を越えられないものは、
村人になるしか、ないんだよ。
これは、
村人が悪いと言っているのではなく、
村人も積み重ね次第で、
主人公になれる、って言ってるんだよ。
その選択は、
自由だって、言ってるんだよ。
ただ、
主人公になるには、
闇の克服が必要不可欠だから、
それが難しいよって、言ってるだけなんだよ。
事実って、過酷なんだよ。
過酷を乗り越えるからこそ、
そこに確かなものが、
生まれるんだよ。
だからね、
安定を得たいのなら、
村人が適正だと思うよ。
ドラマを感じたいなら、
主人公を取るべきだよ。
そう言うことを、
選択だと言ってるんだよ。
ただ、
村人は、サポートする側の人で、
主人公は、サポートを受ける側の人になるよ。
分かった上で、
選ぶのは、
自身であり、他人ではないよ。
けれど、
闇が多い人ほど、
村人から抜けられない可能性が高いよ。
今までのツケが、
溜まっているからね。
だからこそ、
毒だしが必須なんだよ。
物質に偏った結果が、
毒だしの意味だよ。
となると、
物質時代の成功者ほど、
その多くが、
大量の毒だしを必要としていることになるよ。
転換が目茶苦茶、大変だってことだよ。
でもね、
あきらめたら、
そこで試合終了だよ。(笑)
困難は越えてこそ、
花咲くのが人生の醍醐味だよ。