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龍体文字とフトマニの答え ~ウロボロスと知恵の実の謎~
今回の記事は、
全ての原理性の話になっているので、
かなり難しいと思うので、
集中できる時に読むことをお願いします。
書いた僕自身ですら、
体調が悪いと読めません。(笑)
それと、
ヌーソロジーを知っていると、
少し分かりやすい内容になっています。
なので、
全ての謎を解く方法
と言う記事を上げているので、
そちらを見てから読むことをお勧めします。
・
・
・
回転と逆回転と言って、
何が言いたいのか分かるだろうか?
この世界は回転でできていて、
回転には、
正転と公転がある。
正転とは、右回転で光の波動性からの振動性。
公転とは、左回転で闇の振動性からの波動性。
より具体的に言うのなら、
N極とS極の様なもので、
N極(上)から始まるものが、物理性(闇属性)となり、
S極(下)から始まるものが、神秘性(光属性)となる。
更に詳しく言うと、
斜め左上(N極)から始まるものが、闇の物理性となり、
斜め右下(S極)から始まるものが、光の神秘性となる。
無限のマークが表(物理)を示し、
フトマニの回転がその裏(神秘)の役割となっている。
どういうことか?と言うと、
無限のマークとは、
ウロボロスのことで、
ウロボロスとは、
二面性がある。
表は、物質性(二面性のウロボロス)を表し、
裏は、意識性(一面性のウロボロス)を表している。
そこから生まれるものが、
エネルギーの流動性そのものになる。
二面性が物質(振動)エネルギー、
一面性が意識(波動)エネルギーとなる。
ちなみに、
ウロボロスとは、
これのこと↓(一番上の画像)
![](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/72026944/picture_pc_3ce09d4eb9aa96846aa482b4b9106812.png?width=1200)
そして、
ウロボロスとは、
神秘性(意識性)と重なることで、
二面性のものを一面性に変える。
それを示すのが、
レオナルド・ダ・ビンチのこの絵になる。↓
![](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/72254578/picture_pc_a36eaa86b931909504d351701f414d8f.png?width=1200)
言うなれば、
意識が統合し、
意識レベルが高い程に、
ウロボロスとは、
一体化し一面性になることを、
この絵が示している。
ちなみに、
そのことを、
物質意識から神秘意識への移行、と言う。
分かりやすく言うのなら、
3次元意識から4次元意識の移行となる。
だからこそ、
ウロボロスとは、様々な形があって、
その形の意味とは、
進化することによって、
その在り方が変容することを意味している。
その変化は、
二面性から一面性になることにはじまり、
丸の形を紡いでいくことが、
(調和性を高めること)
ウロボロスの進化論(3の進化論)となる。
現に肉体も丸からできていて、
肉体に浸透する程に、
丸ばかりになる。
その丸を応用することが、
進化そのものになるのである。
その代表的なものが、
曼陀羅となる。
まさに、
丸こそ進化の象徴なのである。
なので、
逆をすることは、
ウロボロスの退化論となり、
自らの滅亡となる。
逆とは、
意識性ではなく、
物質性に囚われることである。
この考え方は、螺旋を繰り返しているので、
少し分かりにくいかも知れないが、
基本的には、
立体的(意識的)に物事を捉えられれば、
よく分かるものになる。
なので、
物質意識に囚われることが、
ウロボロスの自滅と共食いとなり、
物質意識を越えることが、
ウロボロスの消滅を意味し、
ウロボロスの消滅そのものが、
意識の進化論になる。
ちなみに、
ウロボロスとは、捉え方を変えれば、
トーラスのことで、
トーラスとウロボロスは、
裏と表の二面性の関係がある。
ちなみに、
トーラスとは、これのこと↓
![](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/72273702/picture_pc_81fc8d1c389f71770d726ef8dabfbb2d.png?width=1200)
どういうことか?と言うと、
生命的(神秘的)な捉え方が、ウロボロスとなり、
物質的(電気的)な捉え方が、トーラスとなる。
実際に上の画像と比べると、
ウロボロスの形と殆んど同じになる。
と言うよりは、
ウロボロスの背景(ウロボロスの影)が、
トーラスの形となっている。
これは、
ウロボロスとトーラスが、
表裏一体であることを意味し、
ウロボロスは、意識性、
トーラスは、物質性であることを示している。
更に噛み砕くのなら、
リンゴの形もウロボロスの影そのもので、
トーラスの形状が、
リンゴの形状そのものになっている。
まさに、
意識世界の反映が、
自然界にあることを、
現象そのものが示している。
なので、
意識こそ創造主なのである。
更には、
フトマニも、
それを決定付けるものになっている。
フトマニとは、
物質性とは正反対の神秘性を、
的確に示すものになっている。
どういうことか?と言うと、
フトマニの縮図とは、
真ん中の3つマークが理解のキーポイントになる。
これこと↓(一番上の画像)
![](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/72024895/picture_pc_647e2a95010a78c3e1ddcafbde042e8c.png?width=1200)
ただより詳しく理解して欲しいので、
龍体文字のフトマニから解説しようと思う。
これのこと↓(一番上の画像)
![](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/72257465/picture_pc_606eb273b9edbb98ec60528176d0af0e.png?width=1200)
龍体文字のフトマニとは、
生命そのものの在り方が、
全く違うことを意味している。
全く違うとは、
物質と意識の在り方が、
逆転している、
と言うことである。
何故なら、
龍体文字は、普通のフトマニより、
枠組みが少ないからである。
特に中心から1つ外の枠組みは、
普通のフトマニとは違い、
龍体文字のフトマニは、
全く枠がなくなっている。
これそのものが、
物質と意識の在り方を、
逆転させている証拠になる。
どういうことか?と言うと、
フトマニとは、
意識性と物質性を示すもので、
中心の2枠が、
意識性と物質性の中心核となっている。
真ん中が、意識性で、
その外が、物質性。
と言うことである。
そして、
普通のフトマニは、
中心核から外に一歩でも出ると、
物質枠があることを、
枠の在り方が示している。
逆に、
龍体文字のフトマニは、
中心核から外に一歩出ても、
そこに枠はなく、
枠がないからこそ、
そこには、
物質の超越が示されている。
それが意味するものとは、
次元の違いで、
3次元と4次元の違いが、
そこにあることが分かる。
難しいので更に詳しく言うと、
中央にあるマークを、意識性とすると、
その外の枠組みは、物質性となり、
更にその外の枠組みは、意識性となり、
更にその外の枠組みは、物質性となっている。
そして、
龍体文字のフトマニは、
2回の繰り返しで全体の図式が終わり、
普通のフトマニは、
2,5回の繰り返しで全体の図式が終わっている。
これは、次元の違いを示すもので、
龍体文字のフトマニは、
2次元からの4次元を意味するもので、
普通のフトマニは、
2,5次元からの5次元を示すものとなっている。
言い換えるのなら、
意識主体に書かれたものが、
龍体文字のフトマニで、
物質主体に書かれたものが、
普通のフトマニだと分かる。
この様に、
全ては二元論から、
物事の全貌が見えるのである。
更に言うと、
フトマニとは、
円を中心に波紋が広がることで、
現象そのものの在り方を示している。
言い換えるのならば、
それは、
転換を繰り返していることで、
意識性と物質性の関係そのものを示している。
ただこの現象は、
意識と物質の一体化から生まれるもので、
不完全な意識体は不可能な現象になる。
何故なら、
機械が壊れると動かないことと同じで、
正しい認識と身体を作ることが、
意識から物質へのアクセスの起動条件、
となるからである。
なので、
一体化の先には、
意識と物質の境目がなくなることを、
意味している。
これこそ、
意識開発から生まれる超能力そのもので、
意識次元の違いがそこにあることが分かる。
裏を返せば、
意識次元の超越は、
フトマニの在り方すら変えることを意味している。
それを示すものが、
ミステリーサークルとなるのである。
これこそ、
能力開発の現れで、
龍体文字の示すものとは、
物質超越力となる。
裏を返せば、
超科学となるもので、
超科学とは、
宇宙人の存在とも言えるものになる。
更には、
中央のマークにも違いがあって、
現象の変異としてそれが現れている。
普通のフトマニは、
中央から見て、
真ん中のマークが波動性を示している。
そして、
上と下の渦巻きのマークが、
螺旋の回転を示している。
その回転の在り方が、
右回転と左回転を示していて、
右回転は、神秘性、
左回転は、物理性を示している。
付け加えるのなら、
上の渦巻きは天を示し、意識性(光)となり、
下の渦巻きは地を示し、物質性(闇)となる。
まさに、
陰陽の二極が全てを表している。
となると、
全ての万物の在り方を示しているのが、
闇と光の回転そのもので、
その回転を表すものが、
フトマニの縮図となる。
ちなみに、
回りの文字は、
その現象から生まれる結果なので、
真ん中さえ分かればその他のことは、
自ずと分かることを意味している。
そして、
龍体文字のフトマニは、
真ん中のマークがそもそも変異している。
分かりやすく言うのなら、
波動のマークから円(螺旋)のマークになっている。
その変異は、
上に上がる波動性ではなく、
円の様に回る、
振動性からの波動性となっている。
意識の在り方が、
物質を超越しているからこその、
振動性からの波動性に、
意識が変異している。
と言うことである。
結果、
上下にあった渦巻きが、
左右にも動ける様になっている。
それは、
龍体文字のフトマニの、
上の画像の画面から見て左下を見ることで、
それが分かる。
あきらかに中央のマークの位置が、
移動している。
これは、
何かの間違いではなく、
物質の変異性と流動性を示している。
なのでそれは、
闇と光の転換を意味していて、
転換は一体化を意味している。
ちなみに、
一体化から生まれる回転は、
コマのように回るのではなく、
一つ一つの枠組みが、
星の自転と公転のように、
交互に交差しながら回る仕組みになっている。
何故なら、
そうしないと、
物事の辻褄が合わないからである。
ちなみに、
カタカムナは、完全に意識主体の縮図で、
その在り方は、
螺旋そのものになっている。
そして、
その回転の在り方は、
右回転となり、
光派生の力がカタカムナであることを、
示している。
となると、
フトマニとは、物質を主とした、
左回転が基本の縮図となることが分かる。
結果、
龍体文字のフトマニは、
物質を超越した、
1次元上の、
フトマニとなっていることが分かる。
更には、
上下のマークが、
オタマジャクシのようになっていて、
そのオタマジャクシが示すものとは、
上と下を繋ぐ架け橋であることが分かる。
その架け橋のことを、
意識性と言って、
完全なる意識性が、
物理現象に繋がっていることを、
そのオタマジャクシが示している。
しかもそのオタマジャクシは、
左回転の動きからはじまっていて、
左回転が示すものとは、
物質意識は闇から全てがはじまることを、
意味している。
なので、
闇の克服なくして、
力の解放はありえないことを、
図式と、
オタマジャクシが示している。
言い換えるのなら、
いくら上辺で理解しても、
何も身に付かなく、
自身の中に全てを宿すことが、
答えに通じることを意味している。
そういう裏の背景が分かるからこそ、
生命の縮図がフトマニとなり、
物質の縮図が無限のトーラスになる。
纏めると、
生命の縮図は、右回転(光)で、
物質の縮図は、左回転(闇)となる。
生命体(意識)の進化は、右回転に宿り、
物質体(機械)の進化は、左回転に宿る。
と言うことになる。
このことを他の言葉で表したものが、
ヌースとノースで、
ヌースとは、右回転。
ノースとは、左回転となる。
全ては繋がっていて、
世界線でよりシンプルに捉えた言葉が、
ヌースとノースになる。
ちなみに、
ノースとは、北を表す言葉でもあって、
その意味とは、
世界線の違いを意味している。
このことは話がズレるので、
深めて話すことは、あえて省略する。
纏めると、
グノーシス主義(自然主義)は、
ヌースとなり、右回転を意味していて、
その他の主義は(不自然主義)、
ノースとなり、左回転を意味している。
それはある意味、
争いの火だねとなり、
人は常に、
右回転(神秘主義)か、
左回転(物質主義)かで揉めていた、
と言うことである。
ここから話の内容が変わり、
だいぶマニアックになるので、
チャレンジャーは続きを読んで見てね。(笑)
・
・
・
何となく世界の仕組みが分かって来たかな?
全ては、
回転から生まれているんだよ。
ただ、
その回転を回すには、
やり方があって、
そのやり方とは、
自然体から始まるものなんだよ。
だからね、
自然体が右回転となり、
不自然体が左回転となるよ。
感覚を開くことが、右回転となり、
感覚を閉じることが、左回転となるよ。
生の回転が、右回転(進化と柔軟性)となり、
死の回転が、左回転(退化と硬化性)となるよ。
右回転とは、神秘からの物質現象となり、
左回転とは、物質からの神秘現象となるよ。
言い換えるのなら、
これが、
ヌース(正転)とノース(公転)そのもので、
地球の在り方そのものを示しているよ。
なので、
この世界とは、
どちらを主にして捉えるかによって、
力の扱い方が異なることを意味しているよ。
物理を主として考えるのなら、
左回転となり、
神秘を主として考えるのなら、
右回転となるよ。
ちなみに、
物理科学は、左回転となり、
学問そのものも、左回転となるよ。
となると、
神秘科学は、右回転となり、
右回転とは、感覚学問となり、
感覚学問とは、原点学問になるよ。
裏を返せば、
原点を知らないと、
本当の感覚学問にはならない、
と言うことだよ。
ここが普通の学問と違う所で、
途中から学べないことが、
感覚学問の難しさになるよ。
何故なら、
途中から学ぶことは、
左回転からの右回転にすることで、
右回転からの左回転にすることが、
本当の理解の在り方だからだよ。
分からないと思うので詳しく言うと、
基盤を知らないで基礎が作れることはなく、
基礎から学ぶことを、
左回転(闇)からの右回転(光)、または、
具体性からの抽象性、と言うんだよ。
そのことを、
型を作り、と言うんだよ。
なので、
基盤から学ぶことを、
右回転(光)からの左回転(闇)と言って、
抽象性からの具体性、と言うんだよ。
そのことを、
型生みと言って、
創造性の確立、と言うんだよ。
左回転からの右回転とは、
創造性まで到達しないことで、
創造性を勘違いすることが、
左回転からの右回転なんだよ。
どういうことかと言うと?
左回転からの右回転とは、
物質を主とした、外(模倣)の知識で、
右回転からの左回転とは、
神秘を主とした、内(創造)の知識になるからだよ。
外の知識と内の知識の違いは、
創造性の違いを生んで、
外の知識が、機械進化となって、
内の知識が、生命進化となるんだよ。
外の知識は、外面に繋がることで、
内の知識は、内面に繋がることだよ。
その違いが、
創造性の違いとなって、
1からの理解が、外の創造性となって、
具体性(1)からの抽象性(0)。
0からの理解が、内の創造性となって、
抽象性(0)からの具体性(1)となるよ。
それを示すものが、
ラマルジャンとニコラ・テスラで、
ラマルジャンとニコラ・テスラは、
1からの外の創造性と繋がるものだよ。
ちなみに、
アインシュタインも動画では紹介されていないけど、
その内の一人だよ。
気になる方はこちらの動画を見てね。↓
それと、
僕がしてることは、
それらの人達とは真逆で、
0からの内の創造性となるよ。
纏めると、
1からの理解は、基礎作り(外枠の構築)となり、
0からの理解は、基盤作り(内枠の構築)となるよ。
外枠と内枠の違いは、
外(物質)に結果を求めるのか?
それとも、
内(空間)に結果を求めるのか?
その違いになるよ。
外は、3次元の物質の答えを示し、
内は、4次元の神秘(肉体)の答えを示す、
と言うことだよ。
全ての答えは基盤に宿るからこそ、
高次元は、0(内)に宿り、
低次元は、1(外)に宿る。
と言うことだよ。
高次元とは、波動の法則で、
上に上がる意識性。
低次元とは、振動の法則で、
下と左右に広がる物質性となるよ。
なので、
高次元の世界は、
2の進化論となり、
上と下の4次元世界(立体)となるよ。
低次元の世界は、
3の進化論となり、
下と左右の3次元世界(平面)となるよ。
数の違いが次元の違いとなるよ。
分かりやすく言うのなら、
上と下で、2次元。
下と左と右で、3次元。
と言うことだよ。
2次元は、上昇気流に乗ることで、
3次元は、並行世界に残ることだよ。
言い換えるのなら、
3次元の世界とは、
物質軸の世界だからこそ、
意識を変化させないと、
上の世界に上がれないことを示しているよ。
だからこそ、
やるかやらないのかは、
自分次第で、
やればできるのは、
意識性(基盤)あっての、2次元と4次元の話で、
やってもできないのが、
物質性(基礎)あっての、3次元の話になるよ。
2次元の世界線は、答えが出ている世界で、
3次元の世界線は、答えが出ていない世界だからだよ。
2次元の世界とは、意識の世界線で、
3次元の世界とは、物質の世界線で、
答えの違いを生み出すものが、
3次元の世界線だからだよ。
なので、
高次元の世界ならば、
無理矢理は、通じるもので、
低次元の世界ならば、
無理矢理は、通じない、
と言うことだよ。
全ては、
上下左右が世界の在り方を決めていて、
上下のことを、
波動性(1次元性からの2次元性)と言い。
左右のことを、
振動性(2次元性からの3次元性)と言うんだよ。
全ては、
0の想いから生まれ、
波動性は、1となり、
振動性は、2となるよ。
1と2の違いが全てを生み出して、
その時に、
3次元の世界が生まれて、
3次元の世界が、
世界の在り方を難しくするんだよ。
何故なら、
物質の要素がそこに生まれるからだよ。
その時に、
答えの明確化と不明確化が生まれ、
波動性は、纏まること、
振動性は、纏まらないことを示しているよ。
だからこそ、
全ては0地点に還らないと、
答えが出なくなるんだよ。
理解とは体現性だからこそ、
0地点に還らないと答えが出ないんだよ。
そしてこの世界は、
波動の法則から作られていて、
そのことを、
想いの具現化と言うんだよ。
その想いの具現化から全てを回すことを、
歯車を回すと言って、
波動(想い、光)あっての振動(願い、闇)こそが、
本当の世界の在り方だよ。
物質からそれを捉えると、
全てが逆となり、
振動(願い)あっての波動(想い)、にすることが、
1つの大きな間違いとなっているんだよ。
しかも、
その間違いとは、
物質だけでは終わらず、
意識にも存在していて、
そのことを、
カルマの法則、と言うんだよ。
カルマの法則とは、
残留思念のことで、
残留思念のことを、
カバラと言うんだよ。
カバラとは、
因果律の力そのもので、
因果律の力とは、後悔の念そのもので、
その後悔の念を力に変えるのが、
カバラなんだよ。
だからこそ、
カバラとは、闇の力を主として、
力を使うことなんだよ。
なのでカバラとは、
裏の力であり、
裏の力は表に還す必要があるんだよ。
そのことを、
一体化と言って、
一体化のことを、
真の力と言うんだよ。
なので、
カバラとは、力の欠片で、
力の欠片を答えとすることは、
間違いなんだよ。
何故なら、
カバラの力とは、
あくまで通過点で、
通過点の先にこそ、
本当の答えがあるからだよ。
その答えとは、
正反対にあるもので、
そのことを、
生命の樹、と言うんだよ。
力とは無効を知ってこそ、
真の力となるんだよ。
その誤りを正せないことが、
3次元世界に留まることを生み出すんだよ。
まさに、
そのやり残したことを生み出すことが、
カバラであり、
カルマの法則なんだよ。
分かりやすく言うのなら、
力に囚われることが、
カルマの業の中に入ることなんだよ。
力に囚われないことが、
カルマの業を抜けることで、
その先にあるものが、
生命の樹(無効の光)なんだよ。
全ては、
二元性であり、二元論なんだよ。
転換劇であり、螺旋階段なんだよ。
だからこそ、
囚われることが、過ちそのもので、
過ちの裏にこそ、真理があるんだよ。
結果、
転換と変容こそ答えで、
全てを乗り越えた先にこそ、
(定めない先にこそ)
真の答えがあるんだよ。
全ての過ちは、
力の誤認識(定めること)が生み出していて、
定めることが、
逆回転を生み出していて、
その逆回転の力ことを、
カバラ(闇の原理性)、と言うんだよ。
なので、
定めないことが、
正しい回転となって、
そのことを、
生命の樹(光の原理性)、と言うんだよ。
全ては克服してこそ一体化して、
一体化するからこそ、
全ての歯車が回り出すんだよ。
だからこそ、
その闇の原理性を光の原生性に変えることが、
高次元世界に行く鍵なんだよ。
言い換えるのなら、
カバラとは、低次元に囚われるとで、
地獄の扉を開くものが、
カバラでもあるんだよ。
裏を返せば、
得意分野(闇属性)だけを活かすことが、
カバラの本質なんだよ。
本当の力とは全面のもので、
全面のものとは、
全ての克服に宿るものなんだよ。
だからこそ、
全ては裏返すことで、
力に囚われることは、
余計にそれを難しくするんだよ。
自身の花を咲かすことは、
そういう囚われを無くすからこそ、
花啓くものなんだよ。
それこそが、
本当の力となるんだよ。
だからね、
本当の力を咲かすことを、
右回転からの左回転と言って、
右回転からの左回転が、
生命の樹(光)からのカバラ(闇)となるんだよ。
力とは、
光からの闇に派生してこそ、
真の力となるんだよ。
全ては、
理解を完全にひっくり返した時に、
分かるものなんだよ。
その完全性ことを、
一体化、と言って、
一体化のことを、
終わりの始まりと言って、
終わりの始まりとは、
物質世界から神秘世界に変わることを、
意味しているんだよ。
そのことを、
「本来の世界の在り方」
と言うんだよ。
全ては繋げて考えられるからこそ、
分かるんだよ。
だからね、
知恵の実が禁断の果実だと言う理由も、
ここにあるんだよ。
低次元理解は、知恵に拘ることで、
(力を得ることで)
高次元理解は、感覚を得ることなんだよ。
(力を無くすこと)
知恵が掴むものは、具体的(低次元)な理解で、
感覚が掴むものは、抽象的(高次元)な理解だよ。
その違いが、
低次元と高次元の違いで、
低次元(具体性)が、高次元(抽象性)を、
無意識に拒むからこそ、
何も分からないんだよ。
高次元とは、意識の世界で、
低次元とは、物質の世界なんだよ。
まさに真逆こそが、
世界の在り方なんだよ。
力に囚われるものほど、
これが分からないし、
受け入れられないんだよ。
裏を返せば、
力がいるものが、低次元で、
力がいらないものが、高次元なんだよ。
裏の裏を返せば、
バランスを取れることが、
真の成長であり、
真の高次元の証なんだよ。
裏の裏の裏を返せば、
力があってできることは、
低次元の証なんだよ。
ある意味当たり前のことだからだよ。
理解とは、
当たり前を越えてこそのもので、
当たり前を越えることを、
本当の理解、
と言うんだよ。
裏の裏の裏を知らないものほど、
それを勘違いするんだよ。
裏の裏の裏を知ってこそ、
全ては1つになるんだよ。
だからこそ、
力とはあくまで、
オマケなんだよ。
オマケだからこそ、
オマケに囚われると何も分からないんだよ。
分からないからこそ、
知恵(低次元)を得たものは、感覚(高次元)を拒むんだよ。
そして、
拒むからこそ、
次第に逆が見えなくなり、
何も分からなくなるんだよ。
全ては自身がそうしているんだよ。
だからこそ、
知恵の実とは、禁断の果実だと言うんだよ。
理解とは、順序を間違えることで、
正反対を受け入れなくするものなんだよ。
それが、
0と1の違いで、
0を基盤(感覚)を知ること、
1を基礎(知覚)を知ること、
と言うんだよ。
理解とは0に戻した時に、
全ての歯車が回り出すんだよ。
その歯車を回すことが、
神秘の扉を開くことなんだよ。
それを示しているのが、
龍体文字であり、フトマニであり、
ウロボロスであり、知恵の実なんだよ。