女の論理
政治改革・二つの妙案
(空論・机上論、それとも、暴論?)
本田礼子
日本の政治は、今、どうにもならない袋小路のどん詰まりに立ち至っているように見える。
今国会で審議された最大の重要法案は、政治資金規制法改正法であっただろう。しかし、その上程に至る経過はご周知のように国民も呆れるほどのものだった。
法案の審議過程で、政治資金パーティーの購入者名公開基準を巡っては公明党案を、政策活動費の領収証公開時期を巡っては維新案を、すったもんだの挙句に、なりふり構わずあたふたと丸呑みした。
岸田首相からすれば、法案の中身などよりも、国民や議員たちへの自分の威信を保つために、要は『政治資金規制法改正法』を、今国会で成立させた、という事実だけが必要だったのだろう。この法律によって、政治資金が透明化され、裏金がなくなるだろう、と考える国民がはたしているだろうか?
この法案が上程に至ったのは、例の政治資金パーティの裏金問題に端を発しているのだから、パーティー券購入額の上限が五万円か十万円かなどという瑣末なことではなく、政治資金パーティーそのものに大義があるのか、それがそもそも必要なものなのか、その意義の有無から丁寧に議論すべきではなかったのか。
そのような議論を詰めていくと、一部の政治家は、もっともらしく、「政治には金がかかる」、「政治コストは必要だ」などと、開き直りのような中身のない言葉を吐く。
そう言えば、三十年ほど前も、「政治には金がかかる」という言葉に惑わされて、国民は遍(あまね)く一人当たりコーヒー一杯分、二百五十円(総額三百数十億円)の税負担に応じたものだ。政治には金がかかるので、その金を、それまでのように企業や団体からの献金に頼るのをやめて、その代わりに、国民が負担したその税金から政党に助成金を支出する、というものであった。言うまでもなく、政治と企業・団体との癒着を避けるのがその眼目だったのだが、心優しい国民は、選良である議員先生たちが、政治にかかる金を企業や団体に献金として募ること、卑俗な言い方をすれば、企業や団体に金をたかるような、さもしいことはして欲しくなかったのだ。
しかし、三十年たってみれば、 献金や寄付金を受け取らない代わりの政党助成金を受け取りながら、さらに「政治資金パーティー」という名で多額の金品を集めては、その一部を裏金としていたというのだ。国民の失望がいかばかりか、当の政党幹部や派閥の幹部は思い至るだろうか。
黄門様のご印籠でもあるまいに、「政治には金がかかる」、「政治コストは必要だ」と言われれば、政治家以外の国民は政治の裏側など知らないから、つい、「ははー」とばかりにひれ伏してしまう。
しかし、冷静に、一体政治の何に金が掛かるのか考えてみると、おそらく次の二つだろう。
一つは、選挙。もう一つは、総裁選(のための駒集め)。
妙案一、 選挙運動の廃止
「政治には金がかかる」ことの最大の理由となる選挙。だが実は、選挙に金などさほどかからない。
私が地方議会の選挙に候補者として初めて臨んだのは、平成三年であったが、この時は確かに何がしかの金がかかった。
数十箇所(記憶が定かでないが、もしかしたら百ヶ所以上)の選挙ポスターの掲示場所を自分で確保し(地主に何がしかの賃料や謝礼を準備)、自分の分の掲示板やポスターの作成、選挙カーやスピーカーの借り入れ、選挙ハガキの作成・印刷等々、全て自費で対処しなければならなかった。
しかし、その後、選挙費用の公費負担制度が始まり、これらの費用は公費で賄われることになった。したがって、その後の選挙では、候補者が負担しなければならないのは、ポスター貼りの労務費や、選挙運動員や選挙カーの車上員などに支払う人件費位のもので(他陣営では、繁華街に立派な選挙事務所を構えていたが、私は自宅の一角を選挙事務所にしたので、これも選挙費用がさほどかからなかった一因ではある。)、今時、選挙に金はかからないのだ。
選挙と金、と言えば、数年前、参院選での河井案里氏夫妻による公選法違反(買収)事件が記憶に新しい。買収に係る現金の配布先が百人を超えるその規模の大きさもさることながら、びっくりしたのは他にもあった。
同一選挙の同一選挙区に、二人の公認候補者を擁立した自民党は、選挙資金として、一方の河井陣営には一億五千万円、もう一方には一千五百万円を支給したという。(おそらくその原資の一部は例の裏金。まさか税金ではないだろう。)何とその比は十分の一。これで公正な選挙が行われると言えるのだろうか。公正に行われるのでなければ、選挙など意味がない。
選挙が公正に行われるかどうか以前に、そもそも、選挙運動は必要なのだろうか。
候補者側からいえば、選挙カーでひたすら名前を連呼することに何の意味があるのだろう、街に喧騒を撒き散らしているだけではないのか、選挙運動員に名簿の端から投票依頼の電話をかけてもらうのが、どれほどの結果をもたらすのだろう、と、虚しい思いで選挙期間をやり過ごす。
有権者の側からしても、選挙カーの連呼を聞いて、その候補者の経歴や政見がわかるわけでもないし、投票意欲が湧くわけでもない。住宅街で高いボリュームで騒音をまき散らしながら連呼などしていたら、むしろ、反感さえ感じるかもしれない。まして、仕事中や忙しい家事の最中に手を止めて電話に出たら、選挙の電話だったとしたら、支援どころか、逆に腹が立つかも知れない。
候補者の側からも、有権者の側からも、ほとんど何の益にもならないこんな選挙運動が果たして必要だろうか。
自分の投票行動を思えば、実は私は、候補者が偶々知人であった、あるいは、偶々知り合いの運動員に投票を頼まれた、などの理由で投票したことが多かった。全ての候補者の中から十分検討して最善の人物に投票したかと問われれば、否と答えるしかない。
だから、選挙は、選挙運動を廃止し、その代わり、候補者の経歴、政見・政策、人となりを分かりやすく一覧できる選挙広報(紙・データ)を充実すべきだ。そうすれば、有権者一人ひとりが、候補者の中から、自分が信頼できる最善の候補者選びができるだろう。
妙案二、 首相公選の実施方法
政治に金がかかるもう一つの要因は、総裁選のための駒集め。
行政権の頂点に立つ内閣総理大臣は、憲法上では、国会議員の中から国会の議決で指名される、と規定されている。国民が直接内閣総理大臣を選ぶことができない。
こうして、結果的には、国会内の最大政党の党首が内閣総理大臣として国会の指名を受けることになる。正にこのことが、「政治は金のかかる」ものにしている。
現状で国会内の最大政党は自民党なので、自民党総裁=内閣総理大臣である。つまり、現時点で支持率二十パーセント前後の一政党の党首が、、国権の一つ、行政権の最高権力者となれる。だから、自民党内では内閣総理大臣の座を求めて、俄然派閥間で権力闘争が繰り広げられる。数は力、力は金。金に飽かせて一つでも多くの駒(つまり派閥の所属議員)を集めるために、多額の金が飛び交う。
一方国民は、自分たちが選んだ訳でもないのに、地面すれすれの支持率で低空飛行を続ける政党内での派閥間闘争で決まった総裁を、国権の最高権力者としておし戴かなければならない。
権力者が権力を持つのは、国民の代表者であるからだ。国民の誰も、自らの意志で選んだわけではない、単なる一政党の党首が、国権の最高権力者となるのは、理が通らない。
正統な権力構造の、最良の政治を進めるには、国民の一人ひとりが自分の意思で総理大臣としての最適任者を選ぶべきではないか、との論議は今までも何度か起きた。記憶に新しいのは、小泉内閣時の、「首相公選制を考える懇談会」だろうか。
首相公選論が起こる度に、最終的にそれが潰えてしまうのは、やはり、行く手に憲法が立ちはだかってしまうからだ。内閣総理大臣は、国会議員の中から国会の議決で指名される、と憲法には規定されているので、国民は首相選定については、出る幕がない。
それならば、こういうのはどうだろう、我が生涯で最高の名案なのだが。
衆議院議員選挙の選挙区は、県、地域ごとに区割りされているが、それとは別に、定数一の全国区を一つ画定する。全国民がこの全国区の候補者の中から、その経歴や政見、人柄をよくよく比較検討して、最適任と思われる意中の人物を選ぶ。この全国区からの当選者は、特別国会の首班指名選挙に立候補して審議を受ける。全国民が選んだ候補者を否認する議員はいないだろうから、国会の議決を経て、内閣総理大臣の指名を受ける。
これなら、選挙の区割りの変更ををするだけで、もちろん憲法改正の必要はない。
どうだろう、なかなかの名案ではないだろうか?
内閣総理大臣は、全国民参加の直接選挙によって、全国民の代表として、その権力を行使して欲しい。そして、高い政治見識と品格と、政治手腕によって、国民を正しく先導して欲しい。