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逢坂山の蝉丸神社

 
 四十数年ぶりに、四ノ宮駅の改札をくぐってみる。
 京都市内から地下鉄として走って来た四両の電車が、ホームにすべり込んだ。前の山科駅の手前で地上に躍り出た車両は、白と水色で塗装されていて、古い記憶をたぐっている眼には眩しかった。
 
 四ノ宮は、死の宮でもある。と書いていたのは、文化人類学の山口昌男だったか。
 謡曲『蝉丸』を、「天皇制の深層構造」として解読していた。
 その論の始発点が四ノ宮駅である。次の追分駅に向かう途中で県府境を越え、逢坂山の急こう配を登って大谷駅に着く。逢坂の関があったあたりに蝉丸神社がある。『蝉丸』の舞台となった場所だ。

 四ノ宮駅は低い土地にある。「四宮河原には蝉丸を祖とする地鎮経を琵琶で弾奏する地神盲僧が住みついて」と、文化人類学者も書いている。
 川は低地を選んで流れる。川がうねると河原があらわれ、夙や猿楽といった芸能の賤民が小屋掛けする。中世の四宮はそんな場所だったようだ。地上の景観は激変したが、場所=トポスが醸し出すものの質量は、中世からさほど変わらないのかもしれない。

 小、中学生の頃、京都で働くサラリーマンのための新興住宅地に住んでいた。ボーダーおかまいなしに山を削って住宅地を造ると、同じ地区で大津市と山科区と二分されることになる。親が大津側に家を建てたため、小学校は近くの市立小に通えたが、中学校は京津線で逢坂山を越え、大津市内の学校に通うハメになった。

 毎日が越境になった。斜面に建つ家を出て坂を下り、東海道線と湖西線をまたぐ跨線橋を越え、降り立った所は山科区だ。琵琶湖からトンネルを抜けてきた疎水が見える。その急流に抜かれながら坂を下り降り、四ノ宮駅から当時の京津線浜大津行に乗った。都電が二両くっついたような、くすんだグリーンの車両が愛らしかった。

 ぐおおんと不細工に走る車両と一体化して、毎日様々な境界を越えた。
県府境、峠。人間社会が作り出す理不尽なボーダーも、越えた。
 同じ車両に乗っていた同級生には、在日の子どもや流れ職人の子、飯場のプレハブから通う子、山へと入っていく道の奥の一軒家の子、なども混じっていた。山のへりの境界域には、様々な背景を持つ人々が、引き寄せられるのかもしれない。

 わたしは、そういう子どもたちと遊ぶことの方が多かった。同級生の多くは、新興住宅地に住む勤め人の家庭で、自分もその一人なのだが、その中ではなぜか居心地が悪かったのだ。
 
 そんな古い記憶に浸った乗客を乗せて、四両の車両が四ノ宮駅を発車した。スマートに逢坂山を登り切った車両に別れを告げ、大谷駅で下車する。かつてはなかった自動改札を出ると、蝉丸神社の境内へと続く急な石段を、息を切らしながら昇ってみた。

 四十数年前、この神社の祭礼に、トランクひとつで商売するテキヤのおじさんがいた。
 銀杏の大木の根っこにトランクを広げたおじさんは、今から思うと、リアルな「寅さん」の啖呵売なのだった。
 ただ、映画とは違い、おじさんの背広はだいぶくたびれていて、しけた煙草をくわえ、声もしゃがれていた。
 商売は子ども相手のくじ引きで、そこは寅さんよろしく、ぺらぺらと巧妙な語りで子どもたちを煙に巻いていたが。

 あのおじさんは、どこから来て、どこへ帰って行ったのだろう。寅さんのように、帰る場所があったのだろうか。
 人気のない蝉丸神社の境内で、ぼんやりとたたずんでみる。
 おじさんの背広姿は、二両のくすんだ京津線と同様、もはや現れようがないのだろうか。銀杏の樹は健在だが、おじさんは、記憶の中にしかいない。
 
 あれは、時空を越え、転生した蝉丸だったのか。
 境内のへりから石段の下を、そっとのぞきこむ。
 
 よれよれの背広が、盲目の琵琶奏者と手を携え、いちだん、またいちだんと、降りていくのが見えるような気がした。
 琵琶を背負った蝉丸と、古びたトランクを下げたおじさんが、よたよたと支えあい、やがて旧街道を四ノ宮の方へ、ゆっくりと下って行った。






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