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坂の町 幼年時代


 坂の町で育った。
 
 京都市のベッドタウン、県府境の山を切り崩して造った人工の町だった。宅地造成は、山の上へ上へと延び続け、ついに平地から頂上まで数十段、ひな壇を積み上げたような急坂の町になっていた。
 大人になり上京し、坂のない平坦な台東区、江東区での生活を長く続けていると、あの坂の町が妙に懐かしく思えてくる。
 
 坂は男の子の遊び場でもあった。当時流行った五段変速つきの自転車で頂上まで登ると、一気に下まで滑走するときの快感は病みつきになる。
 登るときは、いちばん軽いギアに入れても、スイッチバックする登山電車のような長いルートになる。息はハアハア、顔を真っ赤にして最上段まで登る。そこから滑走するのだ。

 阪急ブレーブスの野球帽をうしろ向きに深くかぶり、ギアをトップに入れて坂を一気に下る。ほんの数十秒のために、三十分近くかけて、汗だくになって坂を登るのだ。
 同級生の女子たちから、
 「アホやな」
 「そやな、アホやな」
と言われても、気にもとめない。この爽快感を味わおうともしない女子どもがアホなのだ。そう思うと、誇らしくもあった。
 
 小学校高学年になると、BCL(ブロードキャスト・リスニング)にハマった。海外の短波放送を受信するという趣味だ。
 隣の部屋では、年子の姉が、京都の中波放送を聴いてせっせと葉書を書き、局に送っていた。姉の書く葉書は面白いのか、よくDJに読まれたりして、その度に「やった!」と手を叩いて喜んでいた。
 そんな姉を横目に、しょうもない中波なんぞ聴きやがって(実は自分もこっそり聴いていた)、わしは短波じゃ、海外放送じゃ。と意気込んでいたが、小遣いにお年玉を足して購入したソニーの短波受信機ICF5900、通称スカイセンサーを駆使しても、アメリカやドイツの大出力放送局しか受信出来なかった。
 
 ねらっていたのは、10KWの低出力放送、Voice of Mongoliaと、Voice of Maldivesだ。「モンゴルの声」「モルディブの声」と、日本語にしたときの響きったらない。「アンデスの声」なんていうのもあった。放送局名だけで、じゅうぶんなくらい興奮した。
 この感覚は、もう忘れてしまっている。ネット時代よりはるか前のことだ。70年代半ば。海外は遠く、外国は、本や雑誌で見るだけのものだった。
 その遠い地の果てから、生の声が届く。この自分の小さな短波ラジオに。
 なんて素敵なこと! 
 となりの部屋から、中波ラジオDJのヨタ話が漏れてくる。
 やかましいわ、じゃますんな。このノイズの向こうに、モンゴルの大草原から、インド洋の島国から、「声」が聴こえてくるかもしれんのや。
 
 スピーカに耳をつけ、ダイヤルを微調節しながら、耳を澄ました。しかし、いくらやっても、遠い外国の「声」は、自分の耳には届かなかった。
 当たり前なのだった。短波放送受信は、アンテナが命なのだ。
 受信機はカネを出せば買えるが、アンテナは、住宅の屋根か庭に大がかりなものを手作りする必要があった。それには、電気の知識と工作の腕前が必要で、そのどちらも自分には持ち合わせがなかった。
 名機スカイセンサーは、いつまでも、ノイズをガーガー鳴らすばかりだ。

 そんな弟を尻目に、姉はラジオ局に葉書を書き、やがて本好きが高じて物語を綴るようになっていった。友だちのいない、孤独ないじめられっ子だったが、ひとりラジオと会話をし、本を読み、文章を書き、少しずつ言葉を自分のものにしていったのだ。

 姉が、大手出版社の童話新人賞で佳作になり、童話作家としてデビュー直前、神戸の震災で亡くなってしまったとき、自分の内側をごっそり半分、えぐり取られたような気がした。
 その痛みを抱えながら、それまであまり読んでこなかった、文学関連の本を読むようになっていた。
 書いたことのない文章を、自分でも書き始めていた。
 
 だが、いまだに、長い坂を一気に滑走するように、聴こえもしない遠い外国の声を聴こうとするように、書いてしまう。

 「あいかわらず、アホやな」

という姉の声が、どこからか聞こえてくる気がする。


※震災の翌年、賞を取った作品『ミドリノ森のビビとベソ』をふくむ、姉の遺稿童話10作品を、「なるみやますみ」の名前で、ひくまの出版から出版しました。



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