JTC(伝統的日本企業)で思う「謙虚さ」という呪縛
社会人になった時からよく直属の上司から「謙虚であること」を何度も教えられてきた。
謙虚というのは辞書的に言えば、「ひかえめでつつましやかなさま。自分の能力・地位などにおごることなく、素直な態度で人に接するさま。」という意味らしい。
たしかに偉そうな人は嫌われるし、独善的で常に自分が正しいと信じて疑わない姿勢だと周囲からのフィードバックや成長の機会を逃すことにつながる。
だから謙虚な姿勢は個人が成長していく上で重要な姿勢だと思う。
しかしだ、僕は上司から「謙虚でありなさい」と言われるたびに得も言われぬ違和感を感じてきた。
どこか抑圧されているような、自分を出すな、控えめにいろといった風に。
入社1年目の僕は張り切りボーイだった。
若手が少ない環境で、周囲の先輩社員たちから期待され、少々謙虚さにかける姿勢があったかもしれない。
それでも上司から言われる「謙虚」という言葉には違和感を感じていた。
あれから2年が過ぎ、僕は社会人3年目になった。
僕がつとめる会社は重厚長大系なため、研修期間が長く、しっかりとした年功序列の会社だ。
いわゆるJTC(Japanese Traditiona Company:伝統的日本企業)というやつだ。
若手社員は基本的に会議に参加しても発言することは無い。
発言するのにも抵抗感があるし、実際に話そうとしても口を開けない雰囲気がある。
若手だけに限らず、JTCだからか会議に参加する人数が多いわりに会議の最初から最後まで同じような人がずっと話している。
また若手は雑用をするべきだとか、飲み会では空いたグラスを見つけたら先輩に次の注文を伺うとか様々な「ビジネスマナー?」というのを怒られながらも叩き込まれた。
でも今思い返すと入社してからの2年間、本当にやる意味あるのかと思うような研修ばかりで、実務を通して成長できたという実感がいまいちわかない。
そして今年社会人3年目になった。
長い研修期間が終わり、上司も新しく変わり、ようやく心機一転仕事ができるようになったかと思うとまた新しい壁にぶつかった。
新しい上司は親会社から来た幹部候補と目される人物で、自分より10歳年上であるものの部署では僕の次に若い人だった。
周囲の人と積極的にコミュニケーションを取り、どっかで見つけてきた業界ニュースを役員を含め大人数にメールで共有したり、会議では自分に関係のない案件にも首を突っ込んで議論に参加している。
海外出張はほぼ毎週のように行き、誰よりも現場経験を積んでいた。
高いコミュニケーション能力、当事者意識、事務処理能力、自己アピール能力、等々。
いかにも出世街道をまっしぐらのエース社員といった具合である。
実際に僕自身、就職活動の時は会社説明会で彼の話を聞いて、彼に憧れた。
だから今の会社に就職することを決めたのは本当のことだ。
しかし、僕が彼の部下として仕えることになり、ようやくあの時感じていた「謙虚でありなさい」という教えに対する違和感が強くなった。
まずマイクロマネジメントで自分の裁量を一切挟む余地はなく、社会人3年目なのにメール1つ自分で作成して送ることができなくなった。
また自分の役回りがその上司の補佐役という扱いになったため、自分の判断でできる業務が一切なくなった。
そして、ほとんどない裁量の中で事細かな報告・連絡・相談・確認をひたすら繰り返した。
ある日、例の上司が受注した案件で中国から20人ほどお客さんが僕の会社に設計打合せでやってきた。
その打合せにおいて僕は上司から来客対応ということで、送迎や会食参加、総務のサポートといった業務を指示された。
送迎の時は、送迎場所に着いた時、お客さんとバスに乗り込んだ時、バスが到着する10分前の3度上司に細かく連絡するように求められた。
時間通りに集まらない客、勝手にコンビニに行く人などがいたため、どうしても上司への連絡が遅れることがある。
それでも遅れると当然ながら自分が怒られる。
また会議室での飲み物のセッティングやテーブルのレイアウト、総務との連絡も自分がするのだが、状況が刻一刻と変わり、何の悪気なく様々な要求をしてくる中国のお客に辟易することも多々。
これまでマイクロマネジメントの下で予定調和通りに物事が行くように確認とお伺いをしなければならなかったのが、急に局地戦となり自分の判断で物事を決めないといけない環境にもかかわらず、例の上司や他部署の人たちは容赦なく文句をぶつけてくる。
そして一番辛かったのは会食に参加した時だった。
そこそこ品のある日本料理店を会場に日中双方合わせて30人で会食を催した。
しかし、残念なことに中国のお客さんは中国語しか話せない。
中国では誰もが知っているような大企業でもうまく上手に外国語が話せるのは日常的に英語や日本語を使う部署の人たち(購買担当や外事担当など)に限られる。
まったく日本と同じような状況だ。
それでも通訳は1人か2人しかいないので、当然幹部クラスの人たちの近くに座って会食のサポートをする。
となると、残る大半の実務者クラスではせっかくの会食でも全く会話ができないという気まずい状況となってしまう。
僕は学生時代に中国語を学んだこともあり、日常会話なら話せる。
うまく場を盛り上げようとしたが、やはりあの上司に止められた。
「お前は黒子なんだから黙ってウェイターでもしてろ」
「客と会話をするな」
「中国語なんか話したところで知ったかぶりにしか思えない」
そのようなことを言われ、せっかくの会食も実務者クラスにとっては退屈なものとなってしまった。
というか営業としてお客と関係構築するために会食に参加しなさいと上司から言われ、同じ営業部の大御所からも「お客さんの相手をしっかりするように」とアドバイスされていたのに、これは何だったのか。
もはや誰の言うことに従えば分からなくなってきた。
夜の時間はそれで終わることはなかった。
会食が終わってお客さんをホテルにお連れして、自分も自宅に帰ろうしたタイミングで「反省会をしようか」と上司2人に居酒屋へ連れてかれて1時間くらいひたすらダメ出しをされ続けた。
「こんなことも3年目になってできないの?」
「誰もお前のこと相手にしなくなるよ、指摘してもらえるうちが華だよ」
「みんなお前のことやる気のない無能だと思っているよ」
その反省会で僕は何も口にすることができなかった。
たしかに僕はどんくさいし、周りを見えていないことがある。
自分のキャパに余裕が無く、配慮に欠けた言動をしてしまう時があることは分かっている。
それでもなぜ、やることなすこと全てダメ出しされなければならないのだろうか?
日々自身の行動や能力を否定され、仕事を与えては取られ、仕事をすればするほどダメ出しを受けて、ほとんど無い裁量の中でさらに身動きが取れないほどの報連相と確認を求められる。
この上司もよく「謙虚さが大事」だと言っていた。
しかしその謙虚さというのは上位の役職者に対して平身低頭で、自分より下の者に対して高圧的に接することを意味していないはずである。
仕事さえできればパワハラをしても許されるというわけでもないはずである。
ここで分かったのは、「謙虚さ」という言葉は他人に対して使うものではないということである。
そもそも謙虚さというのはある程度のレベルや地位に達した人が、自分自身を内省し、相手の立場に関係なく自分のためになる指摘を真摯に受け止めることを言う。
他人、特に立場が下の者に対して謙虚さを求める人はたいてい、「謙虚」と「遠慮」の区別がついていない。
または部下を思い通りに従わせたい、思考停止にさせたいという思惑を「謙虚さ」という言葉で糊塗しているにすぎない。
だから僕は謙虚な姿勢が大事だと認識しているものの、自分は決して後輩や将来の部下、将来の子供に「謙虚になれ」とアドバイスするつもりはない。
なぜなら上に書いた通り、謙虚さは自分で自分に言い聞かすものであり、他人に求めるものではないからだ。
アドバイスするとしたら「感謝の心が大切だ」と言うだろう。
僕は社会人になりたてのヒヨコである。
とある有名アスリートと経営者が対談で「何者でもないのに謙虚になってどこで自分をアピールするの?」言っていたのが印象に残っている。
自身が成長する上で、自身の行動について客観的なフィードバックを受け入れることは大切なことである。
ただ「謙虚」という言葉にだまされて物事に対する当事者意識や自分自身の役割を見失ってはならない。
実際に僕自身が「謙虚さの呪縛」で仕事に対するモチベーションを失い、金以外に働く目的が分からなくなったことがあるからだ。
例の上司の下について以来、僕は「謙虚さ」を「自分にとって糧になることは自分の好き嫌いに関係なく、どのような相手のアドバイスであれ真摯に受け止めること」と定義するようになった。
実際に僕は例の上司をどうしても人として尊敬できないし、嫌いである。
それでも彼が日々実践している情報収集のやり方、要点を抑えた気遣い、高い知的好奇心や当事者意識は学びになると考えている。
自分とどんなに相性が悪い人、嫌いな人であっても何かしら学びになることはある。
決して先入観で決めつけてはならない。
自分にとって糧になることは誰の言うことであれ、一旦は受け入れて自分なりに咀嚼する。
それが僕がJTCで働く中でたどりついた、僕なりの「謙虚さ」である。