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「僕はきっと旅に出る」 第二話:バニーちゃんとシンガポール
2017年10月18日、異国の地で迎える初めての朝だ。
朝目覚めて、窓の外を見てまず驚いたのは、街がとにかく「きれい」だった。
ゴミが一つも落ちていないという清潔感のあるきれい、それと街全体が真新しいという意味でのきれい、の両方とも当てはまった。
今日はシンガポール国立大学の学生と市内観光をする。
主な目的地はチャイナタウンとオーチャードだ。
どんな大学生が案内してくれるのだろうかと期待していた。
当時17歳だった自分はまだ外国の人(ここでは自分が外国人だが)を知らなかったし、日常生活の中で意識することもなかった。
せいぜい、ニュージーランドから来た英語の先生、フィリピンのハーフ、朝鮮半島から来た人くらいしか知らなかった。
僕も含めて同じクラスの人たちの班5人を案内してくれたのはバニーちゃんという女子大生だった。
ごめんなさい、、、、、面喰いました。
あまりにも厚化粧で、、、、笑ってしまいました、、、お許しを。
バニーちゃんは日本語が堪能だった。来日経験もあり、日本のアニメの話やドラマの話をしてくれた。
僕たちの班に一人、英語が好きな女子がいて、その人ととずっとおしゃべりしていた。
自分としては早く、覚えてきたマレーシア語を使いたくてうずうずしていた。
早くチャイナタウンでしゃべりたい。
バスと地下鉄を乗り継いでチャイナタウン駅につくと、そこはなんとも中国といった雰囲気だった。
(この記事を書いている2022年現在、僕はまだ一度も訪中経験は無い。)
中国風の建築、店構え、そして人々のありようは中国そのものだ。
半そで半ズボン、北京ビキニ(Tシャツをたくし上げて腹を出してる中国の屋台老板の格好)、象棋を楽しむ人々が、よくテレビで見る中国の人たちを彷彿とさせた。
ドリアンや宝石、縁起物を売る屋台もたくさんあり、どこでお土産を買えば良いか迷った。
当時の僕に中国語など由もない。
今となっては、英語も中国語も話せる。今シンガポールに行けば誰とでも話せる自信はある。
僕はとにかく現地の人との会話がしたかった。
バニーちゃんに「危ない人が多いから気をつけて」と言われたが、チャンスがあれば頑張って話しかけた。
しばらく街を歩くうちに、バニーちゃんは僕たちを人気のかき氷店に連れて行ってくれた。
マンゴー、チョコ、抹茶など、おそらく台湾系のスイーツ専門店だ。
お店の中は薄暗かったが、味は確かで皆舌鼓をうった。
「次はどこに行こうか」とバニーちゃんが話し出すと、とっさに女子2人がオーチャード、マリーナベイサンズ!と話の主導権を取った。
オーチャードではマレーシアの焼き鳥みたいな料理「サテー」を食べた。
この時間は自由行動だったので、一人でシンガポールの街を散策することにした。
地図もスマホも無く、パスポートと現金だけを持って街に出た。
せっかく異国の地に来たから少し迷子になってみるのも面白いくらいの気持ちでいた。
両替商に、サムスンの中古スマホ、物産展、高級ブランドのお店を、中華系やインド系、さらにはマレー系の様々な人々が商売をしている。
日本ではなかなか見かけられないような光景だ。
異なる文化を持ちながら仲良く暮らしている市井の人々を見ているだけで楽しかった。
どんなことを中国語やタミル語、マレーシア語で話しているのだろうか、色ろなことを彼らの表情を頼りに想像を巡らせた。
高級な住宅街、ものすごい交通量、きらめいた街は東京の都心のようであったが、見るものすべてが新鮮に感じられた。
夕方になり、バニーちゃんを始めとしたシンガポール国立大学の学生たちに別れを告げた後は日本人墓地に向かった。
そこは太平洋戦争の時にこの地で亡くなった軍人や娼婦たち、小説家の二葉亭四迷の墓がある。
蒸し暑くて、音一つない日本人墓地で般若心経を唱えるように先生から指示された。
仏教系私学の生徒たちだから般若心経を唱えることができるのだ。
今でも毎週一度は、朝礼の時間をつかって般若心経を唱えているらしい。
この遠い国で多くの日本人が祖国を夢見て死んでいったことだろう。やはり故郷が一番で、日本人として生まれた以上、自分たちは日本という国からは切っても切り離せないのだと思う。
なんだか急に日本が恋しくなった。
さあ、いよいよマレーシアに入国だ!
国境検問所へ続く道は異様な光景だ。
バイク専用の道路がぎっしりとマレーシアへと帰るバイクで埋め尽くされ、テールランプの川がどこまでも続いていた。