伊川津貝塚 有髯土偶 75:巨大怪獣の爪痕?
愛知県新城市(しんしろし)名合(みょうごう)の六所神社から宇連川右岸(北岸)の下流に位置する新城市豊岡西の築上神社(つきあげじんじゃ)に向かおうとしたのですが、周辺で宇連川右岸に渡ることのできる橋は東から下ってきた国道151号線上にしかありませんでした。六所神社から151号線に出て、50mあまり北上すると151号線自体が名称不明の橋で宇連川右岸に渡っていました。さらに151号線から宇連川(うれがわ)右岸を川下に向かう道を探すと、橋の北100m以内に望月街道と呼ばれる街道が151号線から分岐し、宇連川川下に向かっていることが分かりました。
カーブして、しばらく南に向かう国道151号線(下記写真左)から分岐して西に向かっている望月街道(下記写真右)が以下の写真。
『新城市』の公式ウェブサイト「望月街道と望月喜平治」によれば、以下のようにある。
上記写真の分岐点は望月街道の東の始点があるという新城市川合だが、ここが望月街道の始点というわけではなく、本当の始点はここからさらに700mほど東にあるようだ。
望月街道開設工事は江戸時代に生まれた望月喜平治が私費を投じて9年の歳月を要し、明治19年(1886年)に完成したというが、江戸時代から明治にかけては事業で成功した人物はこうした行為を行なった人物が各地に存在する。
151号線からの現在の望月街道は以下のように舗装路になっている。
151号線から200m以内には以下のように望月街道の左右に民家が点在している。
最後の民家が以下で、このあたりでは軽四輪同士がすれ違える道幅だったのが、すれ違えない道幅に変化している。
この先は道幅がさらに狭まり、くねって山間部の登りに差しかかっている。
この直後に街道の右手には単線である飯田線の施設が現れた。
右手3mほどの高さに飯田線の単線線路が現れると、道幅は軽四輪1台分に狭まるが、これが本来の望月街道の道幅だったと思われる。
151号線から350mあまりで右手の飯田線は覆道(ふくどう:崖崩れを防ぐ半トンネル)となり、左手下には宇連川が現れた。
さらに飯田線覆道沿いを走っていると、宇連川河床に巨大怪獣が爪で引っ掻いたような岩場が現れた。
このすぐ北側には鳳来峡が存在し、ここも凝灰岩(ぎょうかいがん)圏内だ。
海岸では見かける地形だが、川筋でこんな地形を見るのは初めてのことだ。
かつて、ここが海岸だった可能性のある場所ではあるものの、それ以外には、いったいどうすればこんな地形になるのか想像がつかない。
航空写真で、この部分を見下ろすと以下のようになっており、ますます不思議な地形だ。
通常なら、川の流れで消滅するはずの地形なのだが。
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私費を投じて地形を人間の役に立つように改定した事例でよく知られているのが江戸市民に飲料水を届けた玉川上水です。江戸時代前期に多摩川の羽村(はむら)から四谷までの高低差92.3mの間に全長42.74Kmが築かれました。この用水路は当初は藤原氏(鈴木氏)と秦氏(久我山氏)の両豪族によって掘削が始まったのですが、江戸時代に入ると江戸幕府によって事業が継承され、玉川兄弟が工事を請負いました。もちろん江戸幕府から資金は調達されたのですが、それでは足りず、資金が底をつくと、玉川兄弟は自分たちの畑や家を売って費用に充てました。その金額は玉川上水掘削総費用の1/3に相当する金額でした。この功績により玉川兄弟には「玉川」の姓が与えられたのです。玉川兄弟の場合は玉川上水役のお役目を命じられたのですが、こうした市井のために私費を投じた人物の事例の多くは、経済的に没落してしまい、その後の記録は残されることがないので、「行方知らず」となってしまうことがほとんどのようです。