天野氏の出世頭・天野康景【研究ノート:天野氏】
松平氏→徳川氏に仕えた天野氏は数多くいるが、大名にまで取り立てられたのはたった一人である。
それを天野三郎兵衛康景という。
康景は天文6(1537)年、三河国坂崎(愛知県額田郡幸田町坂崎)で天野甚右衛門景隆の子として生まれた。家康より5歳年長で、駿府人質時代より小姓として従った。
永禄8(1565)年には本多作左衛門重次、高力与左衛門清長と共に三河三奉行とされ、「仏高力、鬼作左、どちへんなきは天野三兵」と称されたという。「どちへんなき」を漢字で書くと「何方偏無き」で、どちらにも偏らないという意味だ。
家康の江戸入府に伴い、はじめ下総国香取郡大須賀領のうちに三千石を賜り、慶長6(1601)年駿河国富士郡・駿東郡のうち一万石を賜り興国寺城主となる。
家康の康の字を賜って康景と称するようになったのはこの時からで、初名は景能(かげよし)、幼名は又五郎という。
慶長11(1607)年、修築のために切って城外に積んでおいた竹木を盗む者があり、これを捕らえようとした家臣が盗人のうち3人を打ち殺してしまった。これが天領の領民であったため、康景は駿河代官井出志摩守正次に訴えられ、家康に遣わされた本多正信(子の正純とも)に領民を殺した家臣を差し出すよう言われるが、康景は「盗のために彼等を殺すべき理なし。われ其罪にあたりてこゝをさらむにはしかじ(盗人のために家臣を殺さなければならない道理はない。私はその罪にあたってここを去ることに勝るものはあるまい)」と翌年3月9日興国寺城を棄て出奔、改易となった。
康景は小田原城主・大久保忠隣に匿われ、沼田村の西念寺(現神奈川県南足柄市沼田)に蟄居し、慶長18(1613)年2月24日、77歳で死去したという。西念寺には康景の墓が残っている。
康景の長男・康宗は寛永5(1628)年に赦免され、子孫は一千石の旗本として存続した。
西念寺の墓は貞享4(1687)年康宗の孫・康命の建立とされ、子孫は50年ごとに法要を営んでいたそうだが、明治の半ばにはそれも途絶えていたという。
三河に於ける天野氏について調べると、真っ先に挙げられるのがこの天野康景である。出世頭なのだから道理といえば道理だが、実は三河の天野氏の中で康景の家系は「異端」なのである。
今回はその話をする前段階として、天野康景について紹介した。次回以降、三河天野氏について話したいと思う。