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圧倒的カタルシスへの憧憬【『映画ミッドサマー』レビュー】

年間30本くらいは映画館で見て、家ではずっと海外ドラマか映画を見ている、そこそこ映像作品が好きな私。ずっと感想ログをモレスキンのノートにつけていて、そこからnoteを始める前に見た作品を抜粋、ということで。

今回は映画『ミッドサマー』のレビューです。

一言でいうなら、「正しい宗教のハマり方。」

すみません、心の声が出てしまいました。

ほんとはこっち。「圧倒的カタルシスへの憧憬」


1.) 大勝利を納めたPR戦略

アリ・アスター監督の、長編としては2本目となる同作品は、SNSを主軸に徹底的に展開され、公開前からある種異様な注目を浴びていたのを覚えている。この「ある種異様な」の意味するところは、これがアベンジャー・シリーズやスターウォーズ・トリロジーならまだしも、(観る前は)アングラな宗教ホラーが何故ここまで、というのが純粋なファースト・インプレッションだったからだ。

そんな印象を抱きつつも、Webやポスターで展開されるビジュアルとキャッチコピーの秀逸さが、ホラー嫌いの私の関心を惹いてやまなかった。

「明るいことが、恐ろしい。」
「祝祭が始まる。」

明るいのに恐ろしい、という言葉が気になり、あらすじを読み、ホラーではない、という監督の言葉を耳にし、見にいくことを決めるまでそう長い時間はかからなかった。

熱に浮かされてみる夢の中のような、心許無くもある華麗なキービジュアル。インスタに溢れる素人の「映え写真」たちが裸足で逃げ出しそうな、ノスタルジーと現代的美意識を掛け合わせたカラーリングのポスターの中で、苦悶の表情を浮かべる若い女性。滝のごとく溢れる涙は、怒りとも悲しみとも、痛みとも苦しみともとれ、余計に想像を掻き立てる。

映画館の席につき、見渡すと比較的若い年齢層、女性多め、といった客層なのが深く頷ける、PR戦略の大勝利だ。


2.) 凡庸な設定と非凡な演出力


この映画が興味深いのは、散々当てこすられた設定にあえて取り組んだところかもしれない。あらすじはだいたい、こんな感じだ。

ダニーは心を病んだ妹をもつ女子大学生。ずっと彼氏のクリスチャンにその愚痴を話して来たのだが、それが原因となって、二人の心は離れていた。そんな中、ダニーが事故(というか凄惨な事件というほうが正しい)で家族全員を失い、天涯孤独となってしまう。悲しみと後悔に苛まれる彼女を、クリスチャンは捨てるわけにもいかず、曖昧な態度で接し続ける。彼とその学友マーク、ジョシュ、ペレーの三人が、民俗学の卒論のため夏休みにスウェーデンの僻地にある村を訪れる予定を立てていることを知ったダニーが、私もついて行くと言い出した時も、クリスチャンは何となくそれをOKする。5人がペレーの出身地でもあるその村を訪れるのは、90年に一度の祝祭が行われる期間。白夜の夏、その地はとても美しく、喜びに満ちているように最初は見えたのだが・・・これが現代の常識ではとても理解しがたい、土着の慣習を持つ奇祭だった。次第に不信感を抱き始める一行だが、その奇妙な祭りが研究に役立つと考えたクリスチャンや学友たちは最後まで居ることを選択する。地元民であるペレーもやんわりとダニーを引き止める。ダニーは次第に恐怖や不安に祝祭の高揚感があいまった感情の渦に飲まれていく・・・


正直、設定やあらすじに特別な部分は何も感じ取れないだろう。僻地の奇祭でトラブルに巻き込まれる若者の話、というのは手をかえ品をかえ、古今東西、映画にも小説にも漫画にも都市伝説にも存在する、凡庸な設定。心の本棚では「なんとなくどこかで聞いたことがあるフォークロア」コーナーに陳列されかねない。

それでも、「なんとなくどこかで聞いたことがある」話で終わらないのが、アリ・アスターが鬼才と言われる所以であろう。

あちこちに張り巡らされた演出で、観客は彼の思う通りの精神状態へと誘導されていく。オープニングの、息苦しさ。中盤の、そこはかとない違和感。後半の緊張感。そして最後の圧倒的カタルシス。

今まで、映画は脚本が命だと思ってきた人にこそ見て欲しい。なぜかというと、私がそうだったから。張り巡らされた伏線が回収される快感や、テンポの良いストーリー展開こそが、映画を面白くするのだと。
この映画に会って、初めて、こんな映画の見せ方があるのか、と驚いた。
ストーリーも凡庸だし、展開もどちらかというと鈍重かもしれない。それでも、「伝える」ことの本質を外さない本作品は、間違いなく名作だと言える。

下記からは、そんな演出にも触れつつ、ネタバレも交えたレビューとなる。


3.) オープニング長すぎ説


スウェーデン旅行が決まるまでの一行のやり取りを、人によっては、「前振り長過ぎ」と思うかもしれないほどの尺を使って見せることは、クリスチャンや学友たちの思いやりのなさ・空気の読めなさをしっかり描写し、観客が入れ込む対象をダニーに絞ることに成功している。ここ最近の映画で多い、何人かの主要登場人物を用意されていて観客がどれかを選んで自己投影するような作品とは真逆だ。この作品の性質上、ダニーにどれだけ観客の心理状態を近づけるかが鍵となっているので、これは間違いなく重要な一手だ。

ただ、一方で、ダニー自身の問題の方もしっかり見せていく。長く激しい妹の癇癪に疲れ、疎ましく思う彼女は、恋人であるクリスチャンから自身も疎まれていく。自身が妹にとる態度が、クリスチャンによって自分にも向けられる。妹をわかりたい。それができなくて苦しい。クリスチャンに分かってもらいたい。それが叶わなくて寂しい。妹とダニーは、ある意味よく似ていたのだろう、そしてそれは決して幸せなことではなかったのだろう。

そんな中起こる、一家全員を巻き込む、妹のガス自殺。

あの時、電話に出ていれば。
返事を書いていれば。
会いに行ってあげていれば。

後悔は計り知れない。

妹さえいなければ。
いや、私さえいなければ。


罪悪感と恨みが悲しみに引火して、ダニーの悲鳴混じりの嗚咽が長く長く尾を引いて映画館に響く。身じろぎもできない時間に、憂鬱が観客に伝染していくのが、手に取るようにわかる。同情するに忍びないほどの苦しみが頭の中に響いてくる。

最初の脱落ポイントは間違いなく、このダニーの泣き叫ぶ声だ。

人が普段、胸の奥底に沈めて生きている悲しみを水面に浮かべ対峙させる、トラウマ想起の慟哭。耐えられない人には耐えられないだろうと容易に想像できる。

そして、スウェーデンへの旅。出発から飛行機までの時間はほぼカットされている。印象的なのは、空港から車で村へ向かう道のりにたっぷりの時間を割いていることだ。この間に、現世的なものはすっかり削ぎ落とされ、村の入り口では乗ってきた車も降りなければ行けない。主人公たちの身なりも素朴な学生のもので、車を降りた以降の絵からは、この時代が80年代なのか00年代なのか、現代なのかもあまりよく分からないだろう。それほどに、人工的な物が画面から消える。

車で村へ向かう道中では、印象的なカメラワークが使われている。車を後ろから引き絵で写し、車を軸に、カメラが後ろ宙返りをしながら前にくる、というアクロバティックな表現だ。ポイント・オブ・リターンを通り過ぎた一行に最早後戻りは許されないということを印象付けるのである。

村の入り口で入村の時を待つ一行に、村の若者たちが(自然由来と思われる)ドラッグを進めるシーンでは、最初の「トリップ」が起こる。主人公ダニーは、この映画でなんども、ドラッグ(あるいはドラッグと思しきお茶)により、幻覚や恐怖に襲われることとなる。男性陣は単純に気持ち良さそうなのが一層、彼女の心についてしまった傷を感じさせる。明らかに、PTSDか何かしらの兆候を感じさせる。

こうして、長々と描かれた「前日譚」が終わり、やっと入村の時がくるのである。


4.) 違和感と慣れの怖さ

村に入ると、それまで重苦しかった画が一転して、光たっぷり、自然たっぷり、白色もたっぷりの明るい画になる。オズの魔法使いでドロシーがエメラルドシティに到着した時を想起させるくらいの絵変わりだ。ここがオアシスと言わんばかり。ついでに街の人々も、ここが最高の土地と言わんばかり。

暖かい歓迎に少しずつリラックスしていく一行を見ながらも、この先に不穏が待ち受けることを知る私たちには、この村の土地も人々も装飾さえも、いかにも「白々しく」映る。

この白々しさが「黒」になるまでのグラデーションが絶妙だ。最初は、田舎の長閑な村の、少し変わっているものの総じて優しい人々という印象が、ほろりほろり、鱗が一枚ずつ落ちていくかのように、実態が見えてくる。忍耐強いと言ってもいいほど慎重なスピードで、違和感を少しずつ増幅させ、決定的なシーン(老夫婦が崖から飛び降りる儀式)でやっと、「これは確定。」と思えるに至る。

登場人物たちの視点に合わせると、これがえも言われぬリアリティを持つのである。

最初は、「文化の違い」と微笑ましく思える程度なのだ。何が変、とも言い切れない、微妙なズレ。習慣の違い。ここは田舎だから、昔ながらの慣習を大切にしている場所だから、と理解できるくらいの、ほんの些細な違和感。もちろん民俗学の生徒にとっては、ズレや違和感こそが研究対象の証であり、ともすれば最初はつまらない些細なことばかり、と舌打ちしたくなったかもしれない。ダニーはあからさまに居心地の悪さを感じているものの、男性陣3人(4人目はこの村出身なのでカウントせず)はすんなりと馴染んでいく。

夏の夜、汗をかいた背中に風が吹いて、つぅっと冷えが雫となり背を伝う程度の冷やっと感が、ほんの少しずつその雫を大きくしていく。そして、そろり忍び足ですぐ後ろに近づいてきて「わっ」と声をあげるふざけた友人のごとく、物語の真ん中ほど、老夫婦の公然心中でついに「恐怖」を自覚するに至るのである。いや、気配はしていたんだ、認めたくなかっただけで、実際恐怖はそこかしこに存在していたのに、私は言い当てることができなかった、というのが彼ら一行が感じていたこの村の雰囲気だろう。

だが、この出来事は、男性陣3人とダニーの間に決定的な思考の違いをうむ。ダニーはやはり、この非倫理性に耐えられず逃げ出したくなるのだが、一方で恋人とその友人たちは、これは格好のレポートネタになる、とこの村に留まることを決めるだけでなく、お互いに喧嘩するら始めるのである。少しずつのズレの拡大が恐怖を麻痺させ、老夫婦による自殺儀式という飛び抜けて以上な出来事にすら、彼らの心を慣れさせてしまっていた。

それは観客も同様かもしれない。恐怖を題材にした映画にも関わらず、ここまで席を立つ人が一人も居なかったのは、偶然ではないだろう。「なんとなく怖いけど、わざわざ見るのをやめて出ていくほどではないな」と思いながら油断して見ていたのは私だけではないはずだ。違和感の許容範囲を少しずつ丁寧に、限界まで伸ばしきった状態での、目をそらしたくなるグロシーン。観客と主人公を、梯子の上まで登り切らせてから絶望の穴底へ叩きつける見事な手腕だった。

このシーンが、トリガーだった。


5.) 圧倒的カタルシスへと向かうジェットコースター


これをきっかけに、主人公が抱えるトラウマの記憶がフラッシュバックし始める。両親と妹の死体の幻覚が、再び罪悪感と苦しみを再起する。

同時に観客も、人生のどこかで受けてきた心の傷を抉られる。どんなトラウマかは関係が無い。ただ、過去に味わった痛みや悲しみ、嘆きの感覚だけが心象風景に蘇り、顔を歪めてしまう。本当に辛い過去を持つ人は、この映画を最後まで見るのが難しいだろう。

観客は主人公を通して、躁鬱を追体験することとなる。車輪さえ壊れかねない速度で進むジェットコースターのごとくダニーの心は浮き沈みを始める。村の人々に優しくされたり、恋人に冷たく突き放されたり、村の子と仲良くなったり、仲間が一人一人姿を消したり・・・その度に彼女の心が絶望と高揚の間で針を振り、その振り幅が次第に大きくなっていく。そう、ドラッグによるハイ状態とダウン状態を行き来するかのように。

そして、村のクイーンを決める円陣でのダンス。あまりにも長い時間を割いて、彼女がハイ状態になっていく描写。ダンスというよりは、その前に配られたお茶に何かが入っていたのだろう、ダンスで段々と歓喜の笑みを浮かべていく彼女と反比例して、観客はこの後の展開への予感に薄ら寒いものを感じ取る。狂人の笑顔ほど、警鐘を鳴らすものはない。

こうして村の人々に導かれて歓喜の頂上まで駆け上がった彼女に、彼氏の浮気というイベントが、決定的な違いをもたらすのである。味方が裏切り者になり、村の人々が唯一自分を尊重してくれる存在になり、彼女の所属意識が180度塗り替えられてしまうのである。不可逆的に。

最後はまだ生きている彼氏や、死んでしまった友を生贄に燃え盛る炎を前に、満面の笑みを浮かべる彼女を映して物語は幕を閉じた。その表情からは、解放と安堵の圧倒的カタルシスが感じられる。拒否するよりも、受け入れてしまう方が何倍も楽なのだ。苦しみに塗れた現実とつれない人々に別れを告げ、彼女を女王と崇め、文字通り彼女と感情を共有するコミュニティに身をおく方が、彼女にとってはある意味、幸せなのだろう。そして、少し、ほんの少しだけど、羨望を禁じ得ないのである。


この見事な展開に、絶望するしかない。


6.) 最後に

監督の演出と手腕には上記でごく一部に触れたもの、居心地の悪さを倍増させるブーンという低音だったり、足元が心許無く感じるようなカメラワークだったり、随所にある匂わせであったりと、実際には多岐に渡ります。

文学性の高さと情緒を感じる作品なので、テクニカルの分析よりは、感情の揺れ動きを見つめるのが正解だな、と深く考えすぎないように見てきました。

かなり重たく、また、一回目の新鮮さが大事な作品なので、今後もう一度見るかは・・・正直わかりませんが、私の中ではかなり評価できる作品です。

ただ、ひとつ、見る際に必ず守って欲しいことが。

「心が健康な時に見ましょう」

これ、重要です。
私は、超元気な時に見たにも関わらず、3日くらい、気分が沈んだまま戻ってきませんでした。これが、たとえば、恋人に振られたとか、大事な人を亡くしたとか、仕事で嫌なことがあった後だったら、だいぶ病んでいたと思います・・・。

ので、ぜひ、心のコンディションがいい時にみてください!

約束ですよ!!

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