「手に職」の前段階の考察
職人(大工さん)の不足が問題になっているというニュースを見た。業界の問題として語られているが、それとは違う何かしらの不安を覚えた。
「技術が自分の外にあることが怖い」
純粋にそう思った。もし、今、何かしらの原因で建物が壊れてしまったら私にはもうどうしようもない(もちろん、現代では大工さんにお願いして直していただくというのが一般的ではあるが)。この「不安」に対する気の持ち方は以下のように様々であり、それぞれについて考える。
「そのようなことを考える暇があったら働く」
「自分で修理できるように技術を身につけ安心する」
「業者を呼んで修理してもらうので安心」
忙しくすることで不安に対処できるが強い安心は得られない。ただ、そのようなことを一々考えずに過ごすことが結果的に良かったりもするし、私自身も気を紛らわすことで不安に対処することもよくある。一生その不安に向き合わないことは好きではない。また、その不安が頭から離れなくなった際にどうしようもなくなる。
自分で修理できるようになるにはかなりのコストを要する。世の中を構成する全ての物事に自前の技術で対応できるようになることは不可能である。ただ、その点に目を瞑れば一番安心できる対応策である。
最も現実的な考えは、大工さんに依頼して直してもらうから問題ないと思うことである。比較的安価でプロの仕事の成果を得ることができ、合理的である。個人的には、これでも不安である。というかここがかなり不安である。この思考をする時に私達は「大工さん」がいることを前提としている。この前提は裏がとれていない。先のニュースからするにこの前提の崩壊は現実味を帯びて来ている。「技術が自分の外にあることが怖い」というのはこのことが怖いのである。
自分の外にある技術はいつまでも存在しアクセスできるという神話の崩壊。後継者不足のニュースはこれを意味している。これに対応するには自分の内側に技術を取り込まなければならない。しかし、「自分で修理できるように技術を身につけ安心する」ということは身につけるべきことが多すぎて物理的に不可能であるため選択が必要だ。選択のためには選択肢が必要であり、それを作成しなければならない。
自分の中に握っておかなければならない技術の選択肢を作るためにすべきことは日常生活の観察ではないかと思う。私たちの生活を事細かに観察し、その中で失ってはいけないものをリストアップする作業。これが今私がすべきことではなかろうか。