上司がペットな犬(件)(ショートショート)【短編集:創作1000ピース,31】
【はじめに】
これはオリジナル短編小説です。創作1000ピース 第31作品目。
*
おかしい。何かがおかしい。
手が震え、気づけば書類を握りしめていた。皺が寄った報告書を見て我に返る。溜息で机に叩きつける音を掻き消した。
少々の誤字脱字は目をつぶったとしても、ありえない出来栄えだった。
おかしい。
些細なミスもしない彼女の仕事がこれ……?
俺は疑った。文章構成もめちゃくちゃ。未完成状態で提出するなんて…。
こんな出来は課長になってから初めて見るし、彼女の仕事を振り返っても別人がやったとしか思えない。
何があったんだ。
注意、叱責、指導、それより先に彼女の身を案じた。
「ちょっといいかな」
彼女の背中に声を掛け、会議室に先導した。顔は見れなかった。小さく返事をした彼女の背中は震えていたように見えた。
俺は威圧的な雰囲気を出さないよう、斜め向かいに腰掛け、彼女の提出資料を差し出した。
「これなんだけど」
彼女は俯いたまま、か細く「はい……」と答えるだけで黙り込んでいた。
「びっくりしたよ。君にしては酷い出来だと思って」
「ひどい……ですか」
言葉を選んだつもりだったが、憤りから率直な感想を口にしてしまった。顔を上げた彼女の瞳は潤んでいた。
「いや、……いつもの君と比べると……。いつもはこんなんじゃないだろう。もっと、こう……しっかりやってくれる……」
ああ、駄目だ。
彼女を泣かせたくないのに。心配して気遣いたいだけなのに。
俺は必死に彼女をフォローした。彼女ではなく、資料の内容について指摘しているだけ。わかって欲しい。君を傷つける気持ちはこれっぽっちも……。
「どうかしたのか? 具合が悪いんじゃないのか?」
俺が絞り出した精一杯の気遣いに彼女は椅子から崩れ落ち、声を出して泣いた。
「……ごめんなさい。仕事に私情を持ち込んで……。先日、大切なパートナーを亡くしたんです」
気まずい。
彼女の心を抉ってしまった。
地雷を踏んだ俺も固まった。こういう時、どう慰めたらいいんだ?
「思い出さないように頑張っているですけど……どうしても駄目で……何も手につかなくて…」
俺の心は懺悔で満ち溢れていた。
とんでもない仕打ちをしてしまった。彼女を泣かせてしまって最低だ。
彼女の涙に腹の底がジワジワと熱くなった。
自分を攻めても、彼女の美しさに酔ってしまう。彼女に愛された男に俺はうっすら嫉妬心を覚えた。
最低だ。
大変な時に情が湧き上がってくるなんて。
相手は死んだ男だ。バチが当たる。
「今日はもういい。帰るんだ。ゆっくり休め」
俺は強がっていた。
本当は抱きしめたい。
崩れ落ちた彼女を支え立ち上がらせようとするが、彼女は俺の胸の中に崩れ落ちた。
「ごめんなさい。課長。わたし…」
肩を抱こうとした手を引っ込めた。
駄目だ。今、この状況は……俺が持たない。
彼女に対する同情よりも、自分が盛りに盛っていた。
俺が好きだったものを手に入れた挙げ句にひとりにさせるなんて……。
死者に対する尊厳はどこに行った?
頭の中は煩悩で溢れ、理性が入り込む隙はなかった。
「立てるか?」
彼女は首を大きく横に振った。俺は自制するように生唾を喉奥に押しやった。
……が、間もなくとめどなく溢れる欲情で口の中が水っぽくなっていく。
やけくそになった俺は彼女の頭を肩に乗せ、タクシーに乗り込んだ。
「今日はゆっくり休め」
「ごめんなさい。ありがとうございます」
だめだと心の中で言いつつも、結局俺は彼女の独り住まいに上がり込んでしまった。
寝具、リネン、カーテン、壁からも彼女の匂いがふわっと香ってきて目眩を覚えた。
俺は確信した。ここにいてはいけない。
背を向けて、彼女の寝室を後にする。
想いを振り払うようにドアノブに手を掛けた瞬間だった。
「帰らないでください」
振り返らずにはいられなかった。瞳はうっすらと濡れ、痛々しい顔をしている彼女を見て息を呑む。
「寂しくて……。少しだけでいいので、そばにいてください」
切ない彼女の顔にどうにかなってしまいそうだった。
最低な俺。
己を鬼の心で軽蔑し、カチャリとドアノブを回した。
「すまない。今の俺には応えられない。君を傷つけたくない。……できるなら君の力になりたい。代わりでもいい。……でも彼氏さんに悪いだろ。……いつか、機会があればゆっくり話そう」
せめてもの強がりだった。感情に飲み込まれまいと理性の淵に踏みとどまった。
彼女を振り切るんだ。
「彼氏……? ジョンのことですか?」
「ジョン?」
「わたしの愛犬のことです」
彼女は部屋に飾ってある額縁を指した。ミニチュアダックスフンドの写真があった。
「パートナーって、ペットのことだったのか……」
衝撃の事実に腰が砕け、俺は足元から崩れ落ちた。
「課長。さっき、代わりになるとおっしゃいました? ……ジョンの、代わりになってくれるんですか?」
彼女は聞き捨てていなかった。
「とても可愛がっていたので、寂しくなってしまったんです。新しいペットを迎える気にはならなかったんですけど……。課長なら……、分かってくれそうな気がするんです」
ジョンのものと思われる赤い首輪を手にし、彼女は妖しく微笑んだ。
「とっても似合いそうですね」
何故だろう。冷や汗が止まらない。
逃げればいいのに逃げられない。
それはそれは……、彼女に馳せた想いは幾千の夜を乗り越えて、彼女の家に上がり込むことに見事成功した。
さらに親密な関係を迫られるという願ったり叶ったりな状況なわけで。
彼女の家畜として言いなりになるのも、悪くない……のか……もしれない?
俺は踏みとどまった理性の淵から深淵へと突き落とされた。
これから先、俺が見るものは、体験したことがないディープな世界だ。彼女の言動にどれだけ耐え信頼関係を結んでいけるのだろうか。
すべてはこの首輪が物語っていた。
*
初回投稿の内容を加筆修正し、pixivに投稿しました。
pixivの『3セリフで沼らせる マンガ原作ストーリー』フリー部門に参加しています!
*** 創作1000ピース ***
たくさん書いて書く練習をするためにまずは1000の物語を書く目標を立てました。形式は問わず、質も問わず、とにかく書いて書いて、自信と力をつけるための取り組みです。
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