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こんにちはこんばんは。
もう2024年も半分過ぎました。
早過ぎて、、早過ぎて、、🥲
早いと感じることは充実しているからだとすればありがたいけれど、この調子で日々がすぎてしまうのは恐ろしい😳

改めて時間の尊さ、自分が誰のためにどう生きていきたいのかを明確にして生きる大切さを痛感した今日です。

さて、noteの投稿頻度が月に1回程度で、
少し投稿頻度を上げたいと思っているものの、
私の性格もあり、何かさっと書いて投稿するということができなくて、、、結局あまり更新できてない、、🥲(言い訳)
今後はふと感じたことを思いの儘に書いてみるのもありかなと思ったり、、

今日は最近感じること、大切な人と少し前に話した内容について少し掘り下げてみます。

誰かのために生きるということ。

1.前提として

誰しも人間だから、自分が1番大切で可愛いと思うのは自然なこと。それがあるから、自己愛という言葉があるくらいだし、自分を愛せる最大限が他人を愛せる最大限だとするならば、自分を限りなく大切にすることは必要である。
しかし、それが強すぎると人としての発展性は衰えてしまうのではないか?

前提として、自己愛 というものが人には必要であるということを伝えた上で、今回のお題について触れていきたい。

2.利己的とは

利己的と聞くとどんな印象があるか?
辞書的には【自分の利益だけを中心に考え、他人の立場などを考えないで行動するさま。】
というらしい。
個人的な意見としては、SNSが普及して、より他人との距離が近くなり、自分の生活を表現しやすくなったことで、
利己的な考え方をする人が少し増えているようなきがしてる。
自分の幸せばかりを考えているような感覚。それも人間の本能なのだろうか。
自分がいかにお金を稼ぎ、自分が社会的な地位を上げ、自分が美味しいものを食べ、自分が見た目の素敵な人と付き合い、、、など。
反対に慈善活動を投稿すればいい人と思われたいと思ってるからだといったような声が上がるから面白い。

3.利他的とは

反対に利他的とは?
辞書的には
【自分を犠牲にして他人の幸福・利益のために尽くすさま】
というらしい。
自分を犠牲にしてと聞くと、凄く大きなことに聞こえてしまうが、私的にはそうではなくて心から世の中を良くしたいと願ったり、病める人や貧しい人のために何かを施したいと思う気持ちがあるから、自分自身を犠牲にしているという感覚はないのではないかと想像する。

自分のことで置き換えれば、私という小さな人間が世の中に貢献できることなんて、現時点では限られているからこそ、
自分の周りにいる大切な人は自分から大切にしようと常に思ってる。
そこに自分を犠牲にしていると言う感覚はなくて、素直に自分と同じくらいに愛しているし大切だからなだけ。
大事な人が幸せそうだと私も嬉しい幸せって感じるという心からの気持ちでしかない。

4.脳科学的には

言葉が生まれるのは何か事実となる現象があるからであって、その背景にはその考え方を生み出している根本的なものがある。
これは茂木健一郎さんのYouTubeで話していたことだが、
脳科学的に自分のことを考える利己的なことと、相手のために考えて利他的なことを実践する回路、脳の報酬系は同じと言われているらしい。
この理論を理解した上で、そこからさらに進むと、
この世に自分は1人
自分のために動くことは1人分のエネルギーしか出ない
その中に他人とは数えきれないほどの人がいる。
その数えきれない人のために頑張ろう、幸せにしようとすると、それだけのエネルギーがでる。
それだけを聞いても、相手のために生きるということはそれだけ自分の脳を活性化し、より幸せを感じるために必要不可欠ことであるとわかる。

5.他人というのは絶対的な他者

利他的に生きることがより幸せを感じるために大切であることを理解し、考える上でさらに必要になるのが、他者性を理解することだ。
他人というものは絶対的な他者であり、
どんな時に幸せを感じで、何を求めているのか等を理解することは難しい。だからこそ想像を膨らませたり、相手の状況を読んだりする。もっと広げていけば、それが謂わゆる社会のニーズというだろう。絶対的な不特定多数の他者に対して働きかけようとすることは言わば社会貢献の1つともいえよう。
それは、単純に他人のために何かをしたいということだけではなくて認知的に利他性を磨くことになる。

6.利他性と多様性の受容

利他性について学んでいる時に不意に気づいたことがあったので書き留めておく。今私はオーストラリアに来て約1年がたち、多様性の中で暮らし、色んな人に出会い、自分の中の柔軟性が少しは磨かれたと思ってる。受容できる力というか。。
でも、それにも理由があったことを学んだ。
人は自分の思考の及ぶ範囲内、言わば共感できる範囲の中だと、その共感を通して他人の理解を得やすい。もちろん共感を通して理解をするのは大切である。
一方で、共感できる範囲外にいる人を、理論的に考え、その人たちが何を求めて何を必要としているのかを理解すること。この場合は反発するというとかではなくて、人間としての想像力を駆使して、自分の考え方の1つに取り込むことである。オーストラリアにいると言わずもがな共感の範囲を優に超える人たちで溢れている。
だからこそ、私はここに来て知らぬうちに想像力を駆使しながらひとつひとつを理解し他者性というものも見つけていたのかもしれない。

7.利他性の循環

利他性の循環をするという言葉を聞いてすごく納得したことがあった。これは愛について考えてきたからこそ思うことがある部分だったりするのかなと思う。
家族との関係においても、いつもことあるごとに、
【自分を大切にし、お互いを大切にして、健康に幸せで生きよう】と話してる。
身近に居るからこそ、お互いへの努力を怠ってはいけないと常々思う。身近にいるとその存在が当たり前になってしまって、きっとそうだろうという憶測になってしまう。本来あるべき利他性は状況によって変わるその人の今に目を向けて想像力を働かせることだろう。
努力と聞くと一生共にするのに疲れてしまうとか、落ち着く関係がいいと思われてしまうかもしれないけれど、もちろんそんな関係の中にも関係性を築くためには利他性を働かせることが必要だと思ってる。
 それは利他性をお互いが持ち、働かせ続けて生きることでそれが循環し、幸せのサイクルができるからだと思う。
言ってしまえば、愛するということは技術であるのと同じで、自分から能動的に働きかけ愛することでしか本物の愛が生まれないことと同じなのではないかと理解した。

そして、大事な家族、パートナーともそういう関係性を築けているように感じて嬉しくなった。
(ほとんど私の周りの人のおかげです😇)
いつもありがとう。

8.今後の私の課題

パブリックな視点を持つこと。
社会情景を知ること。
世界を広く持つこと。
利他性の回路を広げていくこと。
ゆくゆくはそのような社会的他者性を語れるような考え方やそんな試み・実践が人生を共にする人とできたら嬉しい。

実際に実践している人が身近に居るからこそ頑張れる気がしてる。

でも、まだそのプロセスの途中にいる。
そのプロセスの中にいても、ゆくゆく社会的な時点で利他性を考えられるようになっても、
どんな時でも私の大事だと思う人を受動的にではなく、能動的にに言動に起こして大切にしていきたい。
そうやって他人のために生きること、すなわち利他性を耕しながら生きることが、自分をより豊かな人間にしてくれることは言うまでもないが、より幸福を感じエネルギーを燃やして生きていく1つの在り方なのではないかと信じているから。


感謝

Minami

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