見出し画像


遠慮の文化

日本の礼儀作法は、「遠慮の文化」
遠慮というのは遠くを重んばかると書く。

日本人は相手の心や、その時の状況の背景にあるものを頭の中で想像して、その時に最もふさわしい言葉であるとか、立ち振る舞いをすることで相手を思いやろうとする、
まさに思いやりの真髄を大切にしている人種なのかなと思う。
時代も変わってきてるし、本当に人にもよると思うけど笑

コミュニケーションをとりながら抱く想像力こそが人には必要な思いやりだと思ってる。

例えば相手が外国人であっても、その人の国の文化であるとか、歴史を学ぼうとしたり相手の立場になって理解しようとする。
もしあなたが自分のことばかり話していたり、厚かましいことばかりしていると、相手に対しての思いやりに欠けている人だというふうに言われてしまう。

これは日本の文化なの?


わからないけど、少なからず私はそうやって育ててもらったし、そのおかげでどこでも生きていける、受け入れてもらえる人間性が身についたと思ってる。
相手の感情に触れて相手の気を悪くする様な事は絶対にしてはいけない、そんな当たり前の感覚が身についてるんだよなぁ。

遠慮とコミュニケーション

人と人とのおつき合いでは、人にはそれぞれの考え方があるという基本的なことを忘れてはいけないし、「私はこうだから、あの人もこうだろう」という想像は一つの尺度にはなっても、あくまで自分の主観にすぎない。
本当の思いやりには客観性が必要であり、その〝入り口″が「遠慮」で、それをもっと客観的にするものがコミュニケーションなのかなと思った。
 

遠慮の使い分けが必要と気づいた話


今までは遠慮したり、気を遣ったりすることが思いやりで美徳だと思ってた。でも、オーストラリアにきてその考え方も少し変化したなと思う。

なぜなら言語の壁がある中で、自分を表現していかないと何を考えているのか全く伝わらないなと感じたから。それが返って相手を不快にさせたり、いやな気持ちにさせたりすることもあると学んだ。

本当の気持ちを表現しながら生きていくことはすごく大切だし、自分がより幸せになれる。

遠慮することで物事が丸く収まることもあるし、その方が相手が幸せになれることもある。でも、それを相手が望んでない場合に、相手は自分は何もしてないのに、必然的に私に我慢させてることになってしまう。

私はそんなつもりなくても、相手も同じように幸せを感じたり我慢せずにいてほしいと願ってくれているのに、どちらにとってもメリットがないと気づいた。


26年間そうやって生きてきたから、何でもかんでも言葉にするの本当私にとっては難しいんだけど、
可能な限り表現して、アサーティブに伝えられる力を身に付けたいな。

感謝

未奈実

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?