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230301_何故か身体操法に注目してしまう

身体を動かすというとホトンドの人は運動神経が絡んでいて、【私は運動神経ないから、運動は・・・】というのが何となくスタンダードな考え方ですね。自分も何となく運動神経と絡めて動かすというイメージを持っていました。

・・・がどうやら体を動かすことと運動神経というのは関連はあるもののそれが全てではないようです。

小学校のときはよく球技をして遊んでいたので、その時代があってか体を動かすことは好きではあるものの、兎に角、子供ってのは好き勝手に我流で動かすので体力の消耗が来るまで無尽蔵に無駄に動き回る感じですね。そして疲れて動けなくなるという感じ。

それが大人になって丹念にシンプルな動き、動作を毎日、ほんの些細な時間を使ってやるようになって少しづつ解ってくることがありました。やはりそれは運動神経ではなく、肉体の仕組み、ポテンシャルを把握してそれを活かしていく動きであるもので。またそれは頭も使うのです。そういう視点で見ると体を動かし頭を動かしているのでたった1つのシンプルな動きで色々なところが活性化しているように思います。これはちょっとの期間だけやって解るものではないですね。

時間軸で言うところの昔になればなるほど、昔の人はこういう体の使いこなしをしていたのかなーと思うところがあります。

今はYouTubeとかで身のこなしなどの内容のものがありますが、現代人のような思考パターンで見ると、特定の動画内容に対して正解/不正解という見方で見てしまうところがあるなーと思いました。正解/不正解という視点を除いて見てみると、改めて海外も含めて日本という国に様々な身体操法があり、それを使い日々の生活を行い、生活することと体を持っていることを楽しんでいたのではないか?と思うようになりました。

もし、そうであれば、現代人のような色々なことが面倒くさいからそれを回避するためにシステムや機械を次々、開発していったようなことを選択しなかったのは解るような氣がしています。

システムや機械を次々、開発していくことはテクノロジー的には進化することと言えるのかもしれないですが、肉体視点で見れば確実にそれは退化していると言えるものです。
古代人は退化することを選択しなかったのですね。無駄にシステム、機械、そして文字を開発する必要がなかったと言えるかと。
またシステム、機械を次々、開発すると確実に脳は退化します。退化した脳は情報1つを理解するために膨大な文字情報や記号などの情報がないと理解できない状態になります。現代に膨大な情報が溢れているのは退化した脳の結果であるなーと思ってしまいます。

体を動かさず、脳だけちょっと動かしている人は日常をますます便利にしてくれるものを望みますが、体を動かし、脳を動かし、感性を働かせている人間にとっては今の社会が次々、製品などとして生み落としているモノは迷惑だし不要なものって感じになりますね。

テクノロジーとして製品として生み出されているものは、もともと肉体に備わっているから要らんわい、という感じ。

クリスタル・フラーレン


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