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230712_肉眼を通して見ることは分離を意味し、肉眼を主体とすると分離や迷走のスパイラルにはまる

人間は現実世界で生きているときってのは視力を失っていない人でなければ大抵、目で見て現実世界の風景やモノなどの対象を見分けて行動判断を行っています。

この肉眼で見る行為というのが、もし【全てを統合して見る】という行為があったとすれば、それとは対称的になる行為になるであろうと思います。
それはカメラであろうが望遠鏡であろうが顕微鏡であろうが機械を間に挟んだところで肉眼で見る対象となるものは必ず【全てを統合して見る】という状態と対称の状態になるものです。

それが現実世界の科学のほうでよく現れていると思います。

科学というのは現実世界にある物質と思われている物質を兎に角、切り刻むということをやってきました。んで切り刻んだモノを組み合わせると1つの製品が出来上がる、もしくは生命の仕組みが判明して人間にも生命が作れるという発想を持っているのが見てとれます。
ところが幾ら切り刻んでも、一向に1つの生命としての完成形を科学が見る、発見することが出来ない状態が続いています。

ではこの状態は改善しつつあるのか?
と言われればよくわかりません・・・という感じで。
ますます迷走しているようにも見えます。

人間が目で物質や他人を見続ける限り、物事や生き物、他人という存在はどんどん分解されてしまっているように思えます。

肉眼で見る行為は確実に1なるものを細分化しています。
例えば、目の前に親指の腹を持ってきて凝視すると親指の背後に映っている背景風景はボンヤリした状態になります。
凝視するという行為はクッキリ鮮明に見ることを意味し、同時にクッキリ鮮明の対称となるボンヤリ曖昧な状態を背後に生み出しています。
なんか素粒子みたいな振る舞いですよね。

これは肉眼で見る行為というのは何か1つ対象を捉えたら、それ以外は無意識に落ちて潜在化するということを意味していて。
この特性はいかなる人間にも適用され科学者にも天才数学者にも超人と呼ばれる人間にも適用されていることになります。同じ目ですからね。

なので機械などを通じてある特定物質の最小単位を発見したとしても、その特定物質の最小単位を取り巻く環境背景は無意識のほうに落ちていってしまい、【あれ?この最小の特定物質の挙動は謎すぎるよね?】と普通はなってしまうかと思います。そして最小の特定物質が空間の中に空間とは別に独立して存在しているという前提のもと、今度は最小の特定物質をまた切り刻み始めるのです。

・・・とまあ何となく抽象的に現実世界の現実的な流れをこんな感じで改めて書いて見ますと、新しいテクノロジーが地球環境を救い、より良い未来社会を形作ってくれるなんて発想は一向に実現することなんてなかろうと直感的に思ってしまいます。

仮にそういう動きが続くとどうなるのか?

テクノロジーを生活や社会に実現化するにはお金がかかりますが、もっと税金をよこせ~となり、嫌々ながらも民がそれに従い働き続けるとそれだけまた色々な資源を浪費消費するので環境が削られ・・・というスパイラルが繰り返されることは何となく想像できてしまいます。

クリスタル・フラーレン


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