230817_なんでも計測されようとしている存在
人は世界の中で親や友人や知人や見知らぬ人と出会っています。
一体何と何が出会っているのか?
まあさしずめ肉体中心の出会いとなっているのが通常ですが、これがもし社会の中であれば何かしらの能力となるのでしょうか。
人は常に他人から自分の存在を見知ってもらおうとしています。
見知ってもらおうとするのは条件づけられた反応でありますが、誕生のときからママやパパの視線や愛情を貰ってきましたので自分と思い込んでいる自分は人生の大半は何か貰おうとする反応で溢れかえっています。
貰おうとするのですから、人生の主人公は当然、【何かを与えてくれる他者や組織】となるでしょう。
自我の宿命と言えるのではないか?とも思えるものですが、自分の人生の主人公は果たして自分に成り得るのか?
因みに人生で出会っていく他者や組織というのは何かと自分に対して客観性を要求してきます。自分というものを他人や組織から客観的に把握できる指標・情報であることを要求してきます。
なので名前や出身地、生年月日、体重、身長、付き合った人数、学歴、偏差値、組織在籍期間、取得スキル、自分のコンテンツの視聴回数、年収、個人ID、健康数値など他人や組織の目から見て一目瞭然の情報を持っていないといけません。
全部データベース化できる必要があります。
自我がやがて情報人間となってしまうのは致し方ないところがあります。
先ほども書いたように自我は自分の人生を生きているようで他人や組織が自我を支配しているから客観的データそのものに成り下がるのは致し方ないと思います。他人や組織が世界の中心になっているのですから、全て客観的に把握されてもしょーがありません。
ではそのような自我に救済はあるのか?
それはきっとあるんでしょう。何故なら他人や組織体が中心となっている世界ってのは想像上の実在しない世界、夢ですから。もしかしたら夢は夢でも悪夢の類に入るのかもしれません。このことが判明するには幾らかの順番があるように思います。
まず自分と思い込んでいた自分がまずそもそも自我と呼ぶ存在であったと氣が付くところから始まるのではないか?と思います。
そして他人や組織から何でも客観的に計測されてしまうことをやめてしまおうと思う必要もあるかもしれません。
あとは、【はっ!今まで自分が現実と思っていた世界って実在しないやんけ!】とわかっていったら、こう・・・何やら今まで氣が付かなかった道筋が浮かんでくるのではないかと思っています。
クリスタル・フラーレン