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230316_現実世界の人間が実際には一歩も動いていない理由

多くの人は旅行というものをしたことがあると思います。
その旅行の交通手段として車、電車、飛行機などの乗り物に乗って行かれたと思いますが、その旅行先で様々な風景、食事を満喫し、温泉なり旅館を楽しんだと思います。
現実を生きる我々視点からすると旅行に行って楽しんだというのは事実となりますが。

ところが違う視点から見ると旅行に行ったこと自体が錯覚であるという見え方をします。

そもそもの話で普段の現実世界で見る空間というものがありますが、あれ自体は現代人の脳が遠近法で見る設定をしておりますので何となく百メートル先に曲がり角があるとか遠近法で風景を解釈しているだけで。本来は縦横の2次元の画像です。
その2次元の画像を複数重ねていくとより立体的に見えてきます。あくまで脳の錯覚という話なんですが。
現実世界にあるシャドーアートというものがありますが、あれがちょっと参考になるかもしれません。

んで実際に体を前に進め50メートル進むとさっきの百メートル先にあった曲がり角は先ほど見た時より巨大化しています。これを無意識に体験していると体が動いて奥行きのある空間を移動したという錯覚が生まれます。
錯覚と言っていますが正確には50メートル進んだ画像が脳のスクリーンに映し出されたということになります。
もっと細かく言うと、百メートル先にあった曲がり角が見えた地点の画像とその地点にあった肉体画像があって、またそれとは別に50メートル進んだ画像とその地点にあった肉体映像がそれぞれ別々に独立にあったということになります。

人間視点からすると50メートル移動したという感覚がありますが、別の視点では二つの元々あった画像を脳に順番で映したということで。肉体は一切動いてませんでした、ということになります。2つの画像の中に元々、移動する肉体も描かれていてそこに意識を合わせていただけということです。画像の中にあった肉体に意識を合わせただけというなら、【私は肉体ではない】ということになりますし、【だから一歩も動いてなかった】ということになります。

これは交通機関に乗って移動したときも同じことが言えます。交通機関を移動する画像を順繰りに脳のスクリーンに映し出してそこに意識を合わせただけで実際に移動はしていないのです。移動した氣分だけが本当でしたということになります。宿泊先で美味しいものを食べたとしても実際に食べ物を食べたというのは錯覚で美味しいものを食べたという実感だけが本当でしたということになります。

また元々そういう画像があったと記載していますが、もしそうだとするなら寿命までの全ての画像があってそれを脳が順番に映し出してそれを運命とか人生と呼んでいるのがわかってくるのではないでしょうか。
そして時間とか空間とか呼んでいる幻想を実際のもののようにカモフラージュさせている概念というか仕組もわかってくるのではないでしょうか?


クリスタル・フラーレン


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