「怪異」とまとめるのではなく、「傷を負った共同生活者」と考える。【営繕かるかや怪異譚/小野不由美】
生きるとは、たくさんの傷を負って、治していくことの繰り返しだ。
それは体や心、時には家にできることもある。
この本はその傷とどう向き合っていくかの物語だ。
短編ごとに出てくる登場人物たちは家にまつわる怪異に襲われる。
それは原因がわかるものもあれば、わからないものもある。
実際に幽霊に出くわす者もいれば、見えない者もいる。
現象は様々だが、確かにその家で起こる。
家は人間が負い、治せなかった傷を引き継いでいるのかもしれない。
人間が負った体の傷・心の傷を、残したままそこに居続ける。
傷は無視することもできるが、無視すればするほど傷が広がることもある。
そんな時、その傷とどうやって共存していくかを営繕かるかやの尾端が手助けしてくれる。
尾端がやることは、大工として家を修繕することだ。
全てをまっさらに作り変えるのではなく、「修繕」というのが肝だ。
尾端は怪異が起きる家を修繕することで、傷と向き合う方法を探してくれる。
「怪異」となると「排除するべきもの」「人間の脅威」という印象を受けるが、かつて人間だったものが傷だけを残してしまった成れの果てと考えると、未来の自分がたどるかもしれない姿だ。
「怪異」とまとめるのではなく、「傷を負った共同生活者」と考えれば、印象はがらりと変わる。
共同生活者たちは居続けることもあれば、出ていくこともある。
それは人間と一緒だ。
ずっと一緒に居続ける人もいれば離れていく人もいる。
そして登場人物たちは、怪異が起きる家を手放すという選択肢を取らない。
もちろん、経済的な理由や代々受け継いできた家のため簡単に手放すことができないなど理由は様々だが、それでも身の危険があるというのに出て行こうとはしない。
それは登場人物たちが、その家が負った傷と向き合うことを選んだからだ。
生きるというのは人間だけでは決して完結しない。
私たちを取り囲む自然や物、空気、言葉や匂い、全てと関わっていくことだ。
もちろん何とつながり何と繋がらないかは自分で決めていい。
それでも繋がると決めたのなら、そのものが負っている傷と向き合っていかなければならない。
生きるとは、たくさんの傷を負って、治していくことの繰り返しだ。
さんちゃん