真崎甚三郎日記・真崎教育総監罷免問題該当部意訳【三】昭和十年七月十二日

七月十二日金曜日。曇り。
 竹内賀久治が八時に来訪。私が昨日殿下に申し上げた内容の容姿を伝え、加藤寛治海軍大将に伝達を依頼した。
 九時林大臣と会見。三長官会議について今日の開催は乱暴であるとし、延期を主張。もし無理やりに開催するのであれば私は席上で何も答えることは出来ないと迫った。しかし林大臣は元来より、計画的に抜打的に圧迫的に嘘を主張していた(閑院宮が出席する、ということ等)ためかなかなか承知しない。結局開催することとなった。
 大臣官邸を出発し大宮御所及び御所に御祝の記帳(孝徳天皇、桃園天皇の即位日か)をし、教育総監部に十時半に出勤する。
 牟田口廉也十一時に来訪。単独上奏が困難であることを今田新太郎(?)に伝えたという。
 午後一時三長官会議に参加。まず林大臣より大将、師団長の異動に関しての意見説明があった。林大臣は最後に私(真崎)の教育総監交代の事情について、私が派閥の主脳であることは陸軍内での共通認識であると発言。この局面において私は詳細な反対論を論ずることを避けた。特に私の罷免については何ら弁解することなく、他の観点について論じた。罷免に関しての返答の猶予を要請したが、殿下並びに林大臣に所見を迫られ、やむを得ず下級者の人事は承認、師団長以上の人事については保留した。十五日午後一時半より三長官会議を再開することに決定し解散した。
 山岡重厚四時に来訪。林銑十郎と私を喧嘩させ、両成敗に終わらせる策を永田鉄山が画策している兆候があり、調査中という。彼には今日、今回の問題に関し、概要を説明し、夜に再開することを約束した。
 森赳四時に来訪。清浦奎吾もわざわざ帰京し、私の罷免反対に大いに奔走しているという。また久原房之介も同様に活動しているという。
 清浦奎吾五時半に来訪。書類の調査を彼に依頼した。
 山崎達、約束通り七時に来訪したが時間がなかったので帰った。
 蓑田胸喜七時半に来訪。日本新聞が廃刊する旨を伝えられる。この重大なる時期に我々に近い新聞が休刊することは遺憾である。
 八時に荒木貞夫を訪問した。小畑敏四郎、鈴木率道が来訪し、間もなく山岡重厚も来る。私は今日の三長官会議の内容・経過について報告した。種々議論をした上で、三長官会議の前に私と林大臣は一度会談を行い、誠意を示すこと。できる限り参議官会議を開くことを決定した。
 
大臣と協議
一、臣下のとるべき態度としては三長官会議前に貴官(林大臣)と私で罷免問題について合意すべきである。(三長官会議において、閑院宮がどちらかに与すれば、皇族が政治に関与してしまうため)
二、この観点による私の意見
 (イ)私は今回、教育総監に留まる必要があると信じている。 
 (ロ)―
三、右の理由
 1、皇軍統制の思想
 2、過去数年間の経過
 3、将来に関する判断
 
三長官会議の際の骨子
  一、私は教育総監として、陸軍の教育に関し重職にある。
  二、皇軍の人事また、軍隊教育上の観点からも罷免すべきかどうか、取捨選択が必要である。
  三、将官らの人事は三長官会議において規定が慣例上存在する。
  四、故に私は人事・教育両方面において最高者である。
  五、そのため、私の地位は三長官会議で決まらない以上、大元帥天皇陛下の御意を拝し、自ら決定すべきである。
  六、万一教育総監の地位が陸軍大臣により意のままに動かされることが生ずれば、その設置意義は滅却することになる。
  七、大臣にはややもすれば政治的な態度をとることがある。そのため、統帥系統の独立は絶対に死守しなければならない。
  八、これが私が教育総監の地位罷免を敢えて反対する根本的理由である。
  九、もし私が職務の中で教育上及ばない点があるとすれば、他人に要求されなくとも自ら辞任する。
  十、ことに現状のように思想が混沌とし、皇軍の精神が未だ十分に浸透していない時点で退任することは出来ない。

 山岡重厚、とともに荒木貞夫宅より帰宅。松浦淳六郎が待っており、山岡重厚と相談していた。私の帰りを待っていた、森木五郎より爆弾(三月事件時の永田のクーデター計画書〈注1〉)の話を聞いた。坂井一位とは語る時間がなかった。

〈注1〉この計画書は三月事件の際、小磯国昭(当時は軍務局長)計画に反対する永田(当時は軍事課長)に「小説でも書くつもりで」と無理やり書かせたものである。永田又は小磯がこれを陸軍省に保管したままにしていたため、真崎らの手に渡ることとなった。(参考文献:岩井秀一郎「永田鉄山と昭和陸軍」二〇一九年 祥伝社新書)


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