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第一話 旅立ち

 東の空が赤く染まる中、薄靄の立ち込める草原をひとりの少女が駆け抜ける。
 腰まで伸びた深紅の髪を振り乱し、同色の大きな瞳に恐怖を滲ませながら、少女――イユ・フロシオ――は、唸り声をあげながら追ってくるウサギに似た魔獣の群れに大声で叫んだ。
「お話くらい聞いてよぉおおおおおっ!!」
 そんなことを言ったところで、魔獣に人間の言葉など通じはしない。
 けたたましいその声を威嚇ととったのか、数匹が怯み速度を落とすが、それ以上に殺気立ち追い立ててくる数の方が多く、イユはエルフ特有の長い耳を極限にまで下げ、必死に走りながら目じりに涙を浮かべた。
 住んでいる村は遠目ではあるものの、引き返せない距離ではない。
 村の周りには魔獣避けの魔法がかけられており、中に逃げ込んでしまえばそれ以上追われる心配がない事をわかっていながら、それでも村へ引き返そうとしないのは彼女なりの決意の表れでもあった。
 たびたび襲い来る魔獣の攻撃を持ち前の勘と瞬発力のみで何とか避けながら、村とは反対の方向へひたすら走る。
 身を守る術を知らぬわけではないが、生まれて十三年間、平和な村の中から一歩も外に出たことのない彼女にとって、魔獣という生き物も、戦闘という行為も、知識や技術としては解かっていても自分には無縁のものだと思い込んでいた。
 その右手には鞘に収まったままの、ひと振りの短剣を握っているのだが、使う者にその意思がなければ、ただの飾りも同然。
 逃げ回るだけで一向に反撃してこない少女の様子に魔獣達は活気付き、追い打ちをかけるように矢継ぎ早に襲いかかる。
 鋭い爪や牙、額にある角で執拗に攻撃され、ついには避けきれず傷を負うが、それでもイユは決して反撃せず必死に逃げ続けた。
 次第に靄が晴れ、真正面に昇る陽の眩しさに目を細める。
 澄み切った青空と生まれて初めて見る、どこまでも続く草原を目の前に、イユは逃げ場のない絶望を覚えた。
 傷が熱を帯び、疼く様な痛みと共に目の前の景色が歪み始める。
 体が鉛の様に重く、体力も限界に近い。
 それでも、諦めたくないと必死に走り続ける。
「……お兄ちゃん……」
 短剣を見つめ、絞り出すように呟いた。
 使い方は知っている。
 使う時も解っている。
 それでも、彼女はそれを鞘から抜こうとはしない。
 足がもつれ、小さな悲鳴を上げて地面を転がる少女に、ここぞとばかりに魔獣達が一斉に跳びかかる。
 生きるための連鎖だということを理解していても、それが出来ないのならば待つのは死だ。
 己の非力さを身をもって知る瞬間、身体を縮まらせ、縋る様に短剣を強く握りしめた。
 ――お兄ちゃん、助けて!!――
 そう願い、少女は強く目を瞑る。
「まともに戦えもしないくせに、何考えてるんだ! この馬鹿イユ!!」
 聴き慣れた怒号が耳を刺す。
 魔獣の短い悲鳴、続けざまに何かが落ちる鈍い音、苛立ちを隠さず近づいてくる足音にイユは恐る恐る顔を上げた。
 朦朧とする意識と涙でぼやけた視界のせいで、はっきりと姿を確認できなかったが、その人物が切望した"その人"ではない事をイユは解っていた。
 「セレに…………ころしちゃ……だめ……」
 落胆と窮地を脱した安堵が入り混じり、息も絶え絶えにそう呟くと、少女は意識を手放した。



 およそ八百年前、この世界は【邪神】という脅威により、滅びの危機に晒されていた。
 創造神は世界を構成する七つの要素、光、闇、輪廻、焔、水、風、地からひとりずつ代行者を創り、彼らに世界の安定という使命を与えた。
 彼らは、人々にひとり一属性の魔力と精霊の加護を施し、魔法や魔術を教え、邪神の力に対抗する術を与え人々を導いた。
 そして、人々は彼らを【自然の七神】と称し、崇め奉った。

 邪神と自然の七神の戦いは、苛烈さを極め、多くの異常気象や自然災害を巻き起こし、ひとつだった大陸を三つに分断するほどの被害をもたらした。
 さらに、邪神の力は生き物の精神や肉体にも影響を及ぼし、恐怖や怒りにのまれ、自我を亡くした化け物と化した同胞との殺し合いにより地上は血の海と化し、混乱と絶望に人々は疲弊しきっていた。
 三百年の月日が過ぎた頃、光、闇、輪廻を司る【上位三神】の手によって邪神は封印され、世界は再び安寧を取り戻す。
 人々は、この戦いの歴史を【アイティオン】と称し、邪神の恐ろしさ、神々の偉大さを後の世に語り継ごうとした。
 しかし、封印されても尚、邪神の魔力の影響は僅かながらにあった。
 人々は魔獣や元同胞である【異形の者】の討伐と復興作業に追われ、落ち着く間もなく数百年の時が経ち、気付けば当時を知る者はこの世を去り、それらを記した書は混乱の最中行方知れずとなってしまう。
 そうして、口伝えのみで広まったアイティオンの歴史は、いつしか誇張や脚色が加えられ、どこからが真実で、どこからが嘘かわからない、おとぎ話となってしまった。

 アイティオン終戦から五百年。
 人々は、三つに分断された大陸のうち、人類が多く生き残った【セディア】で、ひとつの国家を中心に生活している。
 二つ目の大陸【モルグ】では、セディアで罪を犯した者と、その親族の流刑地として。
 そして、三つ目の大陸【ルオート】は、大陸があるはずの海域をどれだけ探しても見つけられなかったことから、消滅したものと考えられ、セディアやモルグの人達には『幻の大陸』や『桃源郷』などと呼ばれ、おとぎ話の一部の様に思われていた。

 だが、ルオート大陸は確かに存在している。
 ここ何十年かの間に、セディアから亡命した者達がルオートへ偶然か必然か辿り着き、安寧の地として根を下ろしていた。
 そんな大陸の最西端に位置する、ここ【テドリッド】は、この大陸で唯一の森を有し、その森『リベル』を含めば土地面積としては最大、居住者の数では最小の小さな村である。


 少女は暗闇の中、必死に手を伸ばす。
 どれだけ叫んでも振り返る事のない、見知った背中に向けて。
「どうしてっ!?」
 何度も何度も、伸ばした手は虚空をかく。
「おいていかないでっ!!」
 あんなにしっかり繋いでいたはずの手は、あっさりと離されてしまった。
「ひとりにしないでっ!!」
 もがけばもがく程、その背はどんどん遠のいていく。
「――お兄ちゃんっ!!!!」

「っ!?」
 勢い良く開いた目に陽の光が飛び込む。
 眩しさで反射的に目を閉じ、イユはその光から逃れようと体を捩る。が、全身が鉛のように重く、思うように動けない。
 心なしか窮屈さを感じ、不思議に思い薄く目を開ける。辛うじて自由に動かせる頭を持ち上げ、自分の体を確認すれば、イユの体は掛け布団ごとロープでベッドに括りつけられていた。
「なんで!?」
 状況が理解できずパニックになるイユとは裏腹に、開け放たれた窓からは心地よい風と、一日の始まりを告げる鳥たちの鳴き声が聞こえてくる。 
 混乱してうまく回らない頭で必死に状況を整理しようとするが、湯水のごとく疑問が湧いて出てくるため、『どうやら今は朝らしい』という事実だけを受け入れて、イユは考える事を放棄した。
 首だけを動かして、辺りを見回す。
 よくよく見れば、見慣れた部屋で、ここはイユが住んでいる家の病室だ。
 何故、自室ではなく病室に寝かされ、ベッドに括りつけられているのか。
 再び思考を巡らそうとするも、不機嫌そうな顔をした青年が部屋に入ってきた事により、中断した。
 ――あ、これ、めちゃくちゃ怒ってる。
 青年の表情からそれを悟ると、動かせない体に出来るだけ力を入れて身を縮まらせ、じきに来るであろう怒声に備える。
「……起きたか」
 しかし、予想を裏切って青年は深いため息と共にそうひと言だけ呟くと、ベッド脇にある丸椅子に腰かけた。
 確実にお説教タイム突入だと思い込んでいただけに、イユは拍子抜けする。だが、まだ油断は禁物だ。お説教でなければ、両頬を抓って延ばされる『おもちの刑』の可能性がある。
 今の状態では、どう足掻いても自分の頬を死守できない。どうにか、回避しなければ。
「セレ兄……なんで、わたし、しばられてるの?」
 考えた挙句、口から出た言葉は、やはりこの拘束の疑問だった。
 そもそも、悪い事をした覚えは全くない。
 イユの問いかけに、セレ兄と呼ばれた青年――セレスト・ルナール――の紫の髪の間から生えた狐耳がピクリと動く。
 釣り目で仏頂面、長身な外見に似つかわしくない、亜種族特有のもふもふの獣耳は本人の意思に反して感情豊かだ。
「……覚えてないのか?」
 翠の瞳で一瞥すると、表情は相変わらず不機嫌そうなままだが、耳がわずかに下がる。
 今日は珍しく、声音もどことなく狼狽えている気がする。
 ――ああ……やっぱり、あれは悪い夢なんかじゃなくて、現実だったんだ。
 ずっとイユの脳裏に焼き付いて離れない、昨夜の記憶が鮮明に蘇る。
「……お兄ちゃんは?」
 緋い月がほの暗く照らす中、禍々しく光る金色の瞳。暗くてよく見えなかったが、髪の色も黒みがかっていた気がする――もしかしたら、とても良く似た違う人かもしれない。そんな淡い期待を抱きながら尋ねた。
「……」
 セレストは黙ったままだ。
「……これ、ほどいて」
「ダメだ」
「なんで?」
「また、考えも無しに飛び出すだろ」
 その言葉で、この拘束の意味と、あの時の兄が同一人物である事に確信を得てしまった。
 暫く『でも!!』『ダメだ』と押し問答していると、今度はこの家の主であり、イユとセレスト達の保護者でもあるトダ・バシレウスが部屋に入って来た。
「イユは毒が抜けきるまで絶対安静だよ。セレスト、君もね」
「トダさん……なんで? わたし、どこも悪くないよ? 元気だよ!!」
 イユは未だ、ベッドに拘束されたままなので動けないが、そうでなければ、両手を上げる勢いで自身の健康を猛アピールする。そもそも毒など飲んだ覚えはない。
 だが、イユの訴えにも、物腰の柔らかそうな――むしろ押しに弱そうな――見た目に反して、有無を言わさぬ強い圧を感じさせる笑顔でトダは答えた。
「医者の言うことが聞けないのかな?」
 普段はおっとりした雰囲気で人畜無害そうな笑顔の彼だが、医者モードの時は眼鏡の奥の目は笑っているが、笑っていない。
「俺は、もう治ったんだから良いだろ」
 トダとイユのやり取りを傍観していたセレストが、自分も釘を刺された事に不服を漏らすが、それすらもイユの時と同じ笑顔を張り付けたまま、一蹴する。
「左腕二か所も骨折してたのによく言うよ。左瞼の裂傷だって、一昨日、イユを助けた時に傷口開かせて顔面血塗れにして帰ってきたくせに」
 その言葉に、セレストはばつが悪そうに顔を背けた。
「兎に角、そういうことで君たちは自宅療養!! 特にセレは、動けるからって無茶しないこと!!」
 念を押すように、トダが断言する。
「だから、もう治ってるって言ってるだろ!! そもそも、俺が家事をしなかったら、他に誰がやるんだ!!」
 それに逆らうようにセレストが声を荒げる。
「お前は、医療行為以外の生活能力は皆無だろうが!!」
 『おかゆくらいなら作れる』『お前が料理すると掃除が大変なんだ』だの、なぜか家事に関しての押し問答を繰り広げる二人にあっけにとられながら、イユは先ほどのトダの言葉を思い出し、疑問を抱く。
――セレ兄の左眼……ちゃんとあるよね?
 あの夜、キュノリアが目の前で消えたことに動揺して、はっきりと覚えてはいないが、レートがセレストの左眼から何かを引きちぎったのを見た気がする。
 もはや、お互いの性格のダメだしにまで発展した言い争いをする二人をベッドの上で傍観しながら、イユはセレストの左眼を注視する。
 前髪が掛かっていて見えにくいが、そこには確かに右目と同じ翠色の目があった。
 その事実に胸をなでおろす。
「ねえ!」
 医者モードのトダと、おかんモードのセレストの言い争いにしびれを切らし、イユが声をかける。
「さっき、一昨日って言ったよね?」
「え? ああ、うん……」
「あれから、二日もたってるの?」
 イユの中では、兄がいなくなった日の朝方に村を飛び出し、セレストに助けられ、次の日である今日、目が覚めたのだと思っていたが、どうやら目覚めたのはその二日後らしいと知り、一気に焦り始める。
 その様子を見て、セレストがはっきりと牽制する。
「今更、追いかけても、もう遅い」
 そんなことは、わかり切っている。それでも、何もせずじっとしていたくない。と言わんばかりにイユの瞳は必死に訴えかける。
「……一週間」
 根負けした様にため息を吐き、セレストが言う。
「一週間だけ、付き合ってやる。それで手掛かりが見つからなかったら諦めろ」
「ダメだよ、二人とも全治二週間。そんな状態で旅に出るなんて、医者の私が許さないよ」
 セレストの言葉に一気に表情を明るくしたのも束の間、トダからのドクターストップがかかり、唖然とする。二週間も大人しくしていたら追いつけるものも追いつかない。
「……そもそも、俺もこいつも自然治癒力が高いんだ。人族と同じ診断結果を出してる様じゃ、やっぱ薮だな」
 悪態をつきながら、小型のナイフを取り出し、イユをベッドに括りつけていたロープを手早く切ると、――村の入り口で待ってろ。と耳打ちし、トダの目から隠すように対峙する。
 ようやく解放されたイユは、すかさずベッド際の空いた窓から外へ飛び出す。が、華麗に着地するはずの地面は凍っており、足を滑らせ、盛大に尻もちをつく。
「患者は絶対逃がさないよ」
 恐る恐る見上げたトダの眼鏡が怪しく光り、えも言われぬ恐怖を感じて、イユはその場で大人しくしておくことにした。
「セレも、薮の手にかかるようじゃ、まだまだ私の跡は任せられないなぁ」
「……医薬品を……私的なことに使うな……」
「君は今、患者なのだから問題ないよ」
 部屋の中では、セレストが首筋を押さえて、力なく横たわっている。
 セレストがイユに甘い事を見越し、トダはこの部屋に入る前に窓の外側の地面に氷魔法をかけていた。イユを逃がすとしたら、そこしか出口がないからだ。
 案の定、イユを逃がし、自分の脇を抜けて部屋のドアへとダッシュしたセレストに対しては、すかさず胸ポケットから麻酔針の入った吹き矢を吹いて、首の静脈に命中させる。
 村の子供たちがよく注射を嫌がり逃亡するため、最終手段として身に着けた特技だが、案外役に立つものだな。と自分自身に感心する。 
「……こんなもん……効く……か……」
 麻酔が効き始め、脱力感に必死に抗いながらも、数分かかってようやくセレストは完全に落ちた。
「一番強い即効性の物を少し改良したのに、これでも耐えられるんだ……」
 本当、難儀な体だね。と同情と困惑の眼差しを向け、先ほどまでイユが寝ていたベッドの上にセレストを担ぎ上げる。
「イユ、玄関から入っておいで」
 凍った地面の上に体育座りで大人しく待っていたイユに、ベッド脇に置いてあった靴を渡すと、トダは医者モードではない普段通りの笑顔を向けた。
 言われた通り、玄関から病室まで戻ってきたイユに対して、トダは保護者として優しく語り掛ける。
「まずは、おかえり。あの日突然いなくなって、本当に心配したんだよ」
 その言葉にイユは、逸る気持ちと勢いだけで短剣を握りしめ家を飛び出した自分の浅はかさに気付く。
 自分も同じ事をしたのだと。
 理由も告げられず、勝手にいなくなられる事がどれだけ悲しい事か、自分が一番わかっていたはずなのに。
「……ごめんなさい。ただいま」
 気まずそうにうつむくイユの頭をトダは優しく撫でる。
「無事で良かった……厳密にいえば無事ではなかったんだけどね。体はどう? 辛いところや、おかしなところはない?」
「大丈夫。元気だよ!!」
 今度は心配かけまいと、笑顔を浮かべ――ちょっと、おなかがすいたけど。と付け加える。
 言葉の通り、イユはいたって健康そのものだった。
「傷は殆ど治ってるし、跡も残ってないけど、毒は外からじゃわからないからね。気分が悪くなったりしたら、直ぐ言うんだよ。それから、ひとりで無茶はしないこと。いい?」
「うん。……あの、セレ兄は……」
 大丈夫なの?とトダに問いかければ、――まあ、三日くらいしたら目が覚めるよ。多分。と返された。



「普段はのほほんとしてやがるくせに、仕事となると性格変わるから厄介だよな」
 トダの予想より早く、二日程して完全に麻酔の効力が切れ自由に動けるようになったセレストが遅い朝食を作りながらイユにぼやいた。
 なんとか許しを得て、その日の内に旅立つ事に成功した二人だが、既に太陽は真上にあり、出発を明日にすれば良かったと少し悔やむ。
 テドリッドから近場の村までは、どれだけ急いでも徒歩で三日はかかる。
 途中で行商の馬車にでも出会えれば、交渉次第で乗せてもらえるが、そもそも、このあたりを通るということは、テドリッドに向かっている途中なので、結局意味がない。
 食事を終え、再び二人は地道に歩く。
 どこまでも似たような景色が続き、本当に進んでいるのか解らなくなる。
「ねえねえ、あと、どれくらい?」
 イユが、セレストに何度も確認する。
「……いい加減にしろ」
「だってぇ……」
 夕日が反射して黄金色に輝く草原の中を歩きながらイユがごねる。
 体力には自信があった。普段から森で遊んでいて、木登りや追いかけっこも得意だ。それでも、半日も歩き続けるのは初めてだった。
 ――足痛いし、疲れた。
「音を上げたら、家に帰る」
 イユの様子を察し、セレストが告げる。
 それは家を出る時、約束した事のうちのひとつ。
『一週間以内に、何の手掛かりも得られなければ、諦めること』
『少しでも弱音を吐けば、そこで旅は終了』
『知らない人や変な人についていかない』
『知らない人から何か貰ったら必ず報告すること。食べ物の場合は、その場で食べないこと』
などなど。
 なのでイユは、つい口に出そうな弱音をぐっとこらえ、必死に歩いた。
「……まあ、今日はこの辺で良いだろ」
 十分程して、セレストが少し先に生えた樹を指さす。
「あそこで野宿だ」
 初日にしてはよく頑張ったな。とイユの頭に軽く手を乗せる。
「ま、まだ、疲れてないもん!!」
「お前が疲れてなくても、俺は疲れたんだよ。休ませろ」
 イユの強がりを制し、木陰に向かうと、その場で野営の準備を始める。
「ほら、火」
 セレストに端切れを渡され、それを受け取ると、イユは手のひらに魔力を集中させた。
『ほのおのせーれーさん、少しだけ火をください』
 そう言うとイユの手のひらに赤い粒子が集まり、小さな火が灯る。
 先ほどの端切れに火を移し、それを枯れた木の枝や葉っぱの山に放り込む。
「おまえの詠唱は、もう少し何とかならないのか?」
 道中、襲ってきた魔獣――ウサギに角や爪と牙が生えた――を捌きながらセレストが苦言を呈す。
「そんなこと言われても……わたしたちは、おねがいする立場なんでしょ?」
「普通に『フレイム』とか『ファイア』で良いだろ。精霊は守護した人間に対しては寛大だから、多少適当でも大丈夫だ」
「それはそうだけど……なんかちがう気がする」
 納得がいかない。と、むくれながら燃え広がった火をつつく。
 イユは生れた時に焔の守護を得ており、焔の魔法が使える。
 魔法は自らの魔力と精霊に力を借り発動する。そのため、精霊にどんな魔法が使いたいかを伝えるための呪文が必要だ。だが、呪文に形式は存在しない。
 『ファイア』でも『火をください』でも発動はする。
 ただ、魔獣との応戦時に長い呪文など効率が悪い。勿論、多少具体的に伝えなければ、ただそこに火が現れるだけで、何の意味もない事もある。
 魔法を使う際は、魔力を集中させること、呪文とジェスチャーなどで指示を出す事が必要なので、普段から慣れが必要なのだと、セレストに説教された。
「それ、もう何度も聞いた」
「お前が、何回言っても学ばないのが悪い」
 魔法の基礎知識は、幼い頃から何百回と聞かせてきた。しかし、イユはちっとも理解しようとしない。
「魔獣の事に関してもそうだ。何度言ったら、魔獣と動物が違うって事を理解するんだ?」
 道中、魔獣に遭遇するたび、セレストの制止を振り切り、話しかけに行くイユのおかげで、しなくてもいい戦闘を余儀なくされ、うんざりしていた。
――寝てる間に行商の馬車に乗っけて送り返してやろうか。
 イユの事を気遣い、早めの野宿を決めたセレストだが、割と本気で疲れ切っていたのも事実だ。
「だって、もしかしたらお話聞いてくれるかもしれないでしょ?」
「お前が、動物と意思疎通できる特殊能力があるのは理解してる……だが、今まで話しかけた魔獣に、少しでも話を聞いてくれたやつが居たか?」
「……」
 明らかに怒りのこもった眼差しにイユは委縮する。
 彼女はエルフであり、エルフは自然と共に生きる種族であるため、動物や精霊に好かれやすい。ただ、好かれやすいというだけで、殆どのエルフが動物と意思疎通できるわけではない。
 だが、イユは確かに動物の言葉を理解している。
 正確な天気の移り変わりから、誰も知らない新種の木の実を『リスさんが、おいしいよって教えてくれたの』と大量に持ってきたり、離れた別の村で流行った病気を行商人が知らせに来る前にトダに知らせ、それが確かに行商人の知らせと一致していたり――本人は『鳥さんが教えてくれたよ』と言って皆を驚かせた――勘だけでは説明のつかない事が何度もあり、本人も疑われる度に躍起になるため、周りはそういう特殊な子なのだと納得した。
 だからと言って、通じない相手もいるのだということを理解しろと思いながら、焼けた肉を突き出す。
「とりあえず、これ食って寝ろ」
 深いため息と共に突き出された肉を見つめ、イユは不思議そうに尋ねる。
「この魔獣さん、毒があるって言ってなかった?」
 始めて村を飛び出した時にも襲ってきた魔獣の変り果てた姿に、複雑な気持ちになりながら受け取るが、迷惑をかけている自覚があるだけに、もしかしたら。と疑う。
「毒抜きはしてある。それに、毒があるのは角、牙、爪だ。そもそもいつも食ってる肉だぞ、これ」
 そう言われ、『いただきます』と手を合わせてから安心して肉を頬張る。
「そもそも、お前、なんで一人で飛び出した? 戦えもしないくせに」
「お兄ちゃんを探しに行こうと思って……」
「で、結局、村からそんな離れてない所でくたばってたのか」
 イユは痛い所を突かれ押し黙る。
「さっきも言ったけどな、ここら一帯はこいつらが一番多く生息してる。あまり強くないが、群れで行動して爪や角にある神経性の毒で獲物を動けなくしてから捕食するんだ。俺がすぐ気付いたから良かったものの、間に合わなかったら生きたまま……」
 セレストの言葉の先を想像し、イユの血の気が一気に引いた。
「ご、ごめんなさい。気を付けるから……」
 その夜、セレストの脅し――事実でもある――と、初めての野宿や疲労のせいか、イユは一晩中うなされていた。