味わい深い文章とは
西欧の小さな島国アイルランドに関心を持つ筆者だが、「勉強」の過程で作家・司馬遼太郎が30年ほど前に著した『愛蘭土紀行Ⅰ、Ⅱ』を読んでみた。通読して感じたのは、そのレトリックというか表現力の豊かさに改めて凄さを感じた。例えば、司馬氏アイルランドを旅するまえに訪れた1992年ごろのイギリスの首都ロンドンについての次のような描写である。
「街も人も、銅版画のなかにある。まことに、秩序的である。あるいは大英帝国のころの繁華の形態そのものを国をあげて保存しようとしているかのようである。どのビルも、十九世紀で時計の針をとめている。街並そのものが、銹びた甲冑を着込んだ老騎士のようにならんでいる。老いたりといえども、胸甲を張っているのである。」
筆者は司馬氏が訪れる前の4年間ほど、仕事の関係でロンドンに住んでいたので、その街の様子を実感できる。司馬氏の描写そのままなのである。以来ロンドンを再訪したことはないが、人の話を聞いても街の佇まいは殆ど変わっていないようだ。保守と伝統の国なのだ。それにしても司馬氏の表現力は筆者には到底まねのできない。その司馬氏が見事と感心しているのが文豪・夏目漱石だ。
司馬氏は、漱石がイギリス留学中に住んだ下宿先を訪ねているが、漱石が帰国後に書いた『文学論』の一節を引用し、「(漱石は)この下宿で、イギリスの小説や評論を読んで、いわば『血をもって血を洗ふが如き手段』(なんとうまい表現だろう)をもって文学のなんたるかを知ろうとした」(原文のまま)と書いている。素直に書けば「血のにじむような」でいいのだが、名手司馬氏をもってしても思いつかなかったのだろう。
表現力とともに司馬遼太郎の凄さが分かるのは、その小説やエッセイに登場する人物描写である。この紀行文の中から一例をあげる。英国史上名高い国王ヘンリー8世について、司馬氏は次のように書いている。
「肖像画でみるかぎり、ヘンリー八世は友人にしたくない感じがする。よく詰まった小麦袋のような大きな顔に、小さくするどそうな目、また、口許も小さい。それらは、冷酷なほどの決断力をにおわせる。体がよく肥っていそうで、その性格の行動力と陽気さをよくあらわしている。」
冷酷かつ陽気で、ローマ教皇に逆らい英国国教会を打ち立てた決断力もある君主の容貌を見事に表現している。よく知るヘンリー8世のイメージにぴったりなのである。「小麦袋のような」という表現(比喩)はどこから生まれるのだろうか。この比喩的表現も司馬氏の得意とするところで、大村益次郎の顔を「火吹きダルマ」と表現したりもしている。表現、レトリックの豊かさが文章をあじわい深くするものだと、生意気にも思った。 (令和5年7月27日記)