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荒木篠山論争を現実で思う事
新潮社の波における2人の議論
1991年の新潮社PR誌「波」において[対談ウソとまこと、うまいへた]という対談記事で荒木経惟と篠山紀信は絶交に至るほどの対談をしたらしい。この時のポイントは荒木経惟の「センチメンタルな旅 冬の旅」において棺の中で眠る愛妻陽子さんの写真を公開したことが切っ掛けなのである。
篠山紀信は"多義性こそ荒木経惟の真骨頂であるのに死以外の意味を表さない写真を出すのはらしくない"と非難し、一方で荒木経惟は"心から愛しく思う妻の写真だからこそ意味があるのだ"と返す。
皆さんは死を連想させる写真は撮るものではなく、心に留めるものであると言う考えと、自分が愛おしいと思っている相手の死に顔だからこそ写真に留めておきたいという考えのウチどちらだろうか?
母の死に顔を撮りたいと思った
先日母が他界したのだが、本当に死に顔がいい顔でした。看取る前が1番辛そうだったけど、看取ったときには穏やかな顔をしていたし、エンジェルケアでお化粧をした後は、年は取ったけど到底今旅だったばかりの顔とは思えないぐらいの顔をしていた。息を引き取った母に「お疲れ様、よく頑張ったね」という声を掛けながら、手を握っていたのだが少しずつ冷たくなっていくのが寂しかった。
何度も顔を見ていると、このいい顔を撮ってみたいなと思ったものの、ご遺体の写真を撮ることって人として良いのかどうなのかを葛藤してた。この素敵な顔を心だけに留めるのか写真に撮るのかというのは冒頭の荒木篠山論争にあるような高尚な議論ではないけど、倫理観と感情論の間で凄く悩んだ結果、今回は撮ることを諦めた。
恐らくだけど、もしあの時にM11Monochromeが手元にあれば撮影していただろうなぁと思ったり、それだけ心揺れていたんだろうなぁと思う。
(この下書きは8月くらいに書いたのだけど、中々中身が纏める時間もなくて気がつけば2025年になっていて、その間に医師が研修で解剖するときに御献体をSNSにアップしてエライ問題になっていて、倫理的に自分の親でも写真を撮るというのは難しいのかもしれないなと思いつつも、今になってやっぱりあの穏やかな死に顔の写真は時折眺めたいなと後悔めいたモノのある。死んだと頭では理解していても、なんだか実感が湧かずにいるからかもしれない。)
写真を撮るというタイミング
ライカを持ち歩くようになって変わった事がある。それは気になったらすぐにシャッターを切るという事。35−70とかのレンズを使っていた頃はカメラを構えて構図をイメージしながら画角を決めてピントを合わせてシャッターを切っていたので写真を撮ろうと頭にイメージしてからシャッターを切るまでに1分未満だとは思うけどソコソコの時間を掛けていた。
それがライカの場合は距離でピントは決まるので気になるモノが自分のレンジに入ってきたら軽く範囲を確認してシャッターを切るか若しくはノールックでシャッターを切るようになった。その結果思った以上に「おっこれ良い感じの表情だな」とか「ピントは今一だけど、構図的にはありだな」とか自分の中の合格点越えをする写真が増えたし、少しでも気になるならシャッターを切るようになった。
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それでもやはりまだ結論は出ず
ライカを持ち歩くようになって取りあえずシャッターを切るというスタイルになった今だったら母の写真を撮ったかと聞かれると正直分からない。
あの穏やかな母の顔は写真としても残したい気持ちである一方で、なんだかそういう写真は撮るモノではないのかもなと思ったり・・・撮ったら撮ったで過去最高の写真であって欲しいのに、そうでない写真になったら更に自己嫌悪になりそうだ。結論はまだ出ないし、もう出せないのだろうな。