[誉田八幡宮+惠我藻伏崗陵+鶴岡八幡宮+宇佐神宮+石清水八幡宮+筥崎宮+庚申塔+香椎宮+鎮懐石八幡宮+宇美八幡宮+宮地嶽神社+牽牛子塚古墳] 熊襲・三韓征伐の母 神功皇后 と 敵国降伏の子 応神天皇
日本人にとっての祖神と言えば皇大神宮 天照大神ですが、日本で最も多く祀られている神様と言えば八幡様(やはたのかみ、はちまんしん)です。その別名を誉田別命(ほんだわけのみこと)として第15代 応神天皇(おうじんてんのう)を神霊化しており、天照大神と素戔嗚尊との誓約より誕生した宗像三女神の比売神(ひめがみ)と、応神天皇の母である神功皇后(じんぐうこうごう)を配祀して、八幡三神と呼ばれています。また応神天皇の父である第14代 仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)や玉依姫命(たまよりひめのみこと)、武内宿禰(たけしうちのすくね)を合祀する八幡社もあります。
総本社である大分県 宇佐神宮を筆頭に、京都府 石清水八幡宮と福岡県 筥崎宮を日本三大八幡としており、源氏や平家といった武家に信仰されてきた武運の神様である他、出世開運や交通・海運安全をはじめ、家内安全・安産祈願といった神功皇后や比売神の恩恵を祀っています。
ちなみに「神」を御名に持つ天皇は「神武」「崇神」「応神」の3名のみであり、その中でも応神天皇は最も実在性が高い最古の天皇とされ、その母である神功皇后は知る人ぞ知る、日本の歴史へ大きな影響をもたらした一人です。更に、その子である第16代 仁徳天皇(にんとくてんのう)は計49基の百舌鳥・古市古墳群(大阪府)の「仁徳天皇陵古墳」として、ユネスコ世界遺産文化に登録されています。本寄稿では八幡神という土着の地主神と天皇家の皇祖神が結びついた極めて珍しい性質を持ち合わる八幡様をお届けしたいと思います。
宇佐神宮(うさじんぐう) - 大分県宇佐市
九州圏に発祥した八幡信仰は奈良 東大寺大仏造立事業への多大なる援助を託宣したことをきっかけに、その信仰は全国へと広がっていき、現在ではその数が約4万社とも言われている。
一之御殿は応神天皇(誉田別命)を、二之御殿へは比売大神(宗像三女神)を、そして三之御殿には神功皇后(息長帯姫命)を八幡三神として祀っているが、本殿には二之御殿が主神の位置である中央に配置されていることより、比売大神が応神天皇の神霊よりも前に現れた地主神として、古来より崇敬されてきたことが分かる。
「下宮参らにゃ片参り」と言われるように上宮(本殿)と外宮の両方を参拝する形式をとっており、上宮の一之御殿、二之御殿、三之御殿の後に、外宮へ参拝する。元来、外宮は御炊宮(みけみや)として神様へ捧げる食事を司る役割を持っており、上宮からの分祀で同じ3柱を祀っている。
また、御許山(おもとさん)の山頂には奥宮 大元神社 (おもとじんじゃ)が鎮座しており、比売大神が地上に最初に降り立った地とされている。
参拝作法は出雲大社や弥彦神社のように二拝四拍手一拝を行い、八幡神に神拝できる(現在形)ことへの喜びと感謝を二拝四拍手を通して伝えた後、一拝礼をもって日頃より諸々の禍事・罪穢れを祓い清めて賜っている(現在完了形)ことへの礼をあらわす。
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神の使いとして、神との特別な関係を持つ動物や、動物の姿形をもつものを眷属(けんぞく)と呼びます。その眷属の代表例として、京都府 伏見稲荷大社の狐や滋賀県 日吉大社の猿、奈良県 春日大社や茨城県 鹿島神宮の鹿をはじめ、和歌山県・熊野三社の八咫烏が神武東征を導いたごとく、八幡宮の鳩は、八幡様を全国へ導くために道案内をしたと言われています。
石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう) - 京都府八幡市
平安時代前期に宇佐神宮で受けた神託により山城国 男山山頂に八幡大菩薩を勧請したことが所以とされ、本宮である宇佐へ出向く代わりに石清水八幡宮を礼拝することが天皇および、上皇の慣行となり、やがては朝廷・貴族からの厚い崇敬を受けることとなる。ご祭神は宇佐神宮と同様に、応神天応、比咩大神(比売大神)、神功皇后と八幡三神を祀り、弓矢の神としての信仰があつかった八幡様は源氏の氏神として尊崇され、東国の鶴岡八幡宮へ繋がる。
源氏の隆盛とともに全国各地に八幡信仰が広がり、源頼朝の父である義家が社前で元服した折、神名の「八幡太郎」を授かるなど武家の守護神ともなり、その信仰は源平・足利・織田・豊臣・徳川など歴代将軍家や戦国武将たちに敬拝されていく。
筥崎宮(はこざきぐう) - 福岡県福岡市
宇佐と石清水の両宮とともに知られる筥崎宮は筥崎八幡宮とも呼ばれ、応神天皇を主祭神に神功皇后と玉依姫命が合祀されている。鎌倉時代の蒙古襲来の折、勝敗を決めるという間一髪に神風が吹き、その戦いに勝ったことより厄除・勝運の神としての御神徳を持つ。
楼門には「敵国降伏(てきこくこうふく)」の扁額を掲げており、伏敵門として多くのスポーツ選手がそのご縁を授かるべく参拝する。敵国降伏とは「武力で相手を降伏させるのではなく、徳の力をもって導き、相手が自ずから、なびき、降伏することを真の勝利とする」が真意であり、それは老子兵法の「戦わずして勝つ」とつながり、ひいては饒速日命(にぎはやひ)が長髄彦(ながすねひこ)に説いた「負けるが勝ち」という譲り合いの縄文精神を達観する。
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日本古来より「虫の知らせ」という、何かしらの悪い出来事の前に動物や虫が現れてその予兆を知らせてくれるというニュアンスを持ちますが、人間の体内には生まれた時から3つの虫がいるという道教の教えに由来しており、その虫を三尸(さんし)と呼びます。上尸・中尸・下尸(じょうし・ちゅうし・げし)の3つに区別される三尸は人間が現世に生れ落ちるときから体内に宿っており、60日に一度めぐってくる庚申(かのえさる、こうしん)の日に眠ると、この三尸が人間の体から抜け出し天帝にその人間の日ごろの行いを報告するとされ、罪状によっては寿命が縮まると言われていました。
この言い伝えが「虫の知らせ」の語源となり、またこの虫が抜け出せないようにと徹夜して過ごすという風習も広がり、3年間18回続けた記念に建立したのが庚申塔です。
庚申塔の石形や彫られる神像や文字などはさまざまですが、「申」は干支でいう猿に例えられるため、「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿が彫られたり、同様の理由で庚申の祭神が神道では猿田彦神とされ、猿田彦神が彫られることもあります。また、仏教では、庚申の本尊は青面金剛とされるため、青面金剛が彫られることもあります。
眷属のように神からの使者もあれば、三尸のような神への密告者もあり・・・神仏の世界と人間界が常につながっていることが伺えます。
おまけ
神功皇后と三韓征伐
神と交感する能力があったとされる神功皇后は、なかでも「熊襲より朝鮮の新羅(しらぎ)を帰服させよ」との神の神託を受け、三韓征伐を行い、見事に新羅・百済(くだら)、高句麗(こうくり)の三韓を帰服させたという伝説の持ち主です。もともとは神功皇后の夫である仲哀天皇が大和朝廷に抵抗する九州の熊襲(くまそ)を討伐するために儺県(ながあがた、現 福岡市博多)の香椎宮(かしいぐう)を訪れたことに始まります。仲哀天皇は神功皇后が受けた神託を信じることなく、熊襲征討を実施したものの、結果、勝つことができずに帰還してしまいます。更に、神の啓示に逆らったとして仲哀天皇はしばらくして病に襲われ、崩御します。ちなみにこの神託は住吉三神である底筒男命(そこつつのおのみこと)、中筒男命(なかつつのおのみこと)、表筒男命(うわつつのおのみこと)から降ろされたと言われています。
一方、神の怒りを鎮めるために神功皇后は神に逆らった仲哀天皇の過ちを悔い改め、また罪を祓い清めた結果、熊襲征討を成し遂げます。その後、自らが将軍となり神の啓示にあった新羅への征討を行い、さらに百済、高句麗も帰順させ、三韓征伐を成し遂げます。その際、誉田別命、のちの応神天皇をお腹に宿したまま朝鮮へと出向いたとされており、臨月を迎えたときには、お腹に「鎮懐石(ちんかいせき)」と呼ばれる石を当てて、さらしを巻き、お腹を冷やすことで出産を遅らせたという逸話が残されています。
三韓征伐から帰還後、筑紫の地(現 福岡県)にて応神天皇を出産し、後の大和王権を確立していきました。
安産されたお母さんが生まれたお子さんの健やかな成長を願って産まれたお子さんの名前と生年月日が入った石を収める
お産を迎えるお母さんが収められている石(#1)と新しい石(#2)を持ち帰る
無事に出産を終えたのち、新しい石(#2)に自分のお子さんの名前や生年月日を書き、お宮参りの安産御礼のお祓いの後、持ち帰った石(#1)と一緒に新しい石(#2)を納める
三韓進攻の前には宮地嶽(みやじだけ)山頂より「天命を奉じてかの地に渡らん。希くば開運を垂れ給え」と祈願の上、船出されたと伝えられ、無事帰還後、神功皇后 別称 息長足比売命(おきながたらしひめのみこと)を主祭神に勝村大神(かつむらのおおかみ)と、勝頼大神(かつよりのおおかみ)を両神に合わせ祀り、宮地嶽三柱大神として宮地嶽神社(みやじだけじんじゃ)に崇められています。
ちなみに、1881年 日本ではじめて肖像画入り紙幣が発行されましたが、その最初の人物として神功皇后が描かれており、今も昔も誉れ高い人物の一人であったことが伺えます。
麛坂皇子(かごさかのみこ)と忍熊皇子(おしくまのみこ)
仲哀天皇には神功皇后と大中姫(おおなかつひめ、大中比売命)の二人の后がおり、大中姫との間には麛坂皇子(麛坂王)と忍熊皇子(忍熊王)という二人の皇子が生まれました。新羅征討後、上記二人の皇子の異母弟となる応神天皇が生まれますが、その話を聞いた麛坂王と忍熊王は、次の皇位継承者にその幼い皇子が決まることを恐れ、筑紫から大和に凱旋する神功皇后軍を迎撃しようと企てますが、その勝敗を占う祈狩(うけいがり)を行った際、麛坂王は猪に襲われて亡くなってしまいます。この不吉な前兆に恐れをなした忍熊王は後退をしますが、最終的には逃げ場を失い、瀬田川へ入水して亡くなります。
日本の史実には表立って出てこない皇子たちですが、この皇子たちにちなんだ地名は現存しており、麛坂は「かご池」として、忍熊は「押熊」として皇室「秋篠宮家」の宮号となった秋篠寺の近く位置します。
牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん)
ここ数年、第35代 斉明天皇(さいめいてんのう)、重祚して第37代 皇極天皇(こうぎょくてんのう)の墳墓が牽牛子塚古墳ではないかという説が有力となっていますが、その理由に、夫である舒明天皇(じょめいてんのう)の陵墓(段ノ塚古墳)と、その子である天智天皇(てんちてんのう)(御廟野古墳)および天武・持統天皇(てんむ・じとうてんのう)(野口王墓古墳)の陵墓がいずれも八角墳であり、本古墳もまた八角墳であるからのようです。そして皇極天皇と言えば、朝鮮半島への関与も大きく、またそのために北九州に出征したという記述もあることより、神功皇后の三韓征伐は皇極天皇をモデルに神話化されたのではないかという説もあります。
他方、神功皇后にまつわる史跡が数多く残されていることより実在した可能性も高く、未だにその正体が謎に包まれているミステリアスな一人です。そういった最中、2022年今春、牽牛子塚古墳が築造当時の姿に復元され、一般公開が開始されています。八角墳自体はとても珍しい御陵の一つとして、飛鳥・藤原宮都の資産としてユネスコ世界遺産登録を目指しているそうです。
私たちは高次である宇宙へつながればつながるほど、よりパワフルな引き寄せの法則を体現することができ、ひいては物事を動かすために必要なエネルギーを養います。そのエネルギーをつかみ取るためにも、中今(なかいま)を生きることです。中今とは過去を振り返らず、未来へ望みを託すこともなく、今に向き合い、今を全力で生きることです。高次へつながることは容易いことではありませんが、成し遂げた先には必ず、浄土があります。常に中心は私であり、あなたです。
今を大切にお過ごしください。