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殺意の在処

最初にそれを感じたのは確か中学一年の終わりだった。いつものように些細なことで父親を怒らせ殴られている時だった。顔を拳で殴られ次に鳩尾に拳がめり込む。呼吸が止まり床に倒れるとお腹に蹴りをくらう。そして最後はうずくまった頭を足で踏まれる。いつものことだった。これが「いつものこと」で済む程度には自分の「いつも」は他の人の「いつも」ではないことを理解はしていた。

この「いつも」が始まって約7年。抗う気力もなくなっていた。はずだった。

頭を踏まれいつものように罵倒を受ける。「ゴミ」「カス」「出来損ない」一向に増えることのない父親の罵倒ボキャブラリーはだいたいその3つだけだった。いつものように聞き流していればよかった。それでもその日その時、その一瞬はそれができなかった。

胸の奥で何かが蠢くのを感じた。色にするなら黒。深く重い何かが胸の奥で蠢いたのを感じた。

気づくと拳を握り床を叩いてた。頭を足で踏まれながら床に倒れながらも拳で床を殴る。多分それは感情の発露だったのだろう。

「悔しい」「情けない」「何故、自分だけ」「理不尽」「他の人は」「お前のせいで」

そんな様々な感情が黒い濁流になり神経を伝い拳を床に打ちつけていた。きっと人はそれを「殺意」と呼ぶのだろう。この胸の奥に蠢く黒いモヤは殺意なのだ。

父親は床を殴る息子を見ると「その態度はなんだ」と怒鳴り散らし、また殴る。蹴る。正直もう痛みは感じない。ただの衝撃としてしか認識できなかった。そんなことよりもただこの黒いモヤが出てこないように抑えつけるので手一杯だった。感情のまま振る舞まえればどれほど楽だったか。恐らく「例え自分の身体がどうなろうとこの男だけは必ず道連れにする」という強い殺意のもとそれを実行していただろう。

きっとそうできなかったのは自分の人としてのプライドだったのだろう。決して道徳心などという崇高な志のもとではないように思う。「この男と同類になる」それを人としてのプライドが許さなかったのだろう。それでは本当に人のクズであることを認めてしまうことになる


ニュースなどでしばしば目にする「あの人がそんなことするようには見えなかった」という言葉。どれほど他人が自分を見てないかがよくわかる。誰もが「頑張ったね」と声をかけてもらいたいのだ。その一言にどれだけ救われるだろうか。

黒いモヤを抑えるのにどれだけ心をすり減らすと思う。「頑張ったね」の一言にその黒いモヤは涙となって流れ出るだろう。それが一番大事なんだと思う。

願わくば誰もが救われてほしい。擦り切れる前に。無理に笑わないでほしい。心から泣ける間はまだ大丈夫だから

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