【TSUKINOTSUDOi】かつての自分を凝視し、これから先どう生きたいかを考え抜いたとき、TSUKINOTSUDOiが産まれた
前回のストーリー、花と社労士の結び目が一体何だったのか?
過去時間の次、現在時間、未来時間。
心と言葉と行動を一致させ、私らしく生きる!
これ、これからの私の生き方の目安としてるもの。言葉で表現すると、たった19文字ぐらいだけど、このシンプルな文字を言葉にするのに、どれだけの時間がかかってどれだけの心を費やし、どれだけの人を見てどれだけの問いかけを自身に行い、心と頭を整理整頓してきただろう?
今日はそんなことを書いてみたいと思う。
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私は自営業だから、会社員の方に比べ比較的時間は自由
そんな私が花屋勤務をスタートして、感じたことがあった。花屋では店のオープン時間が決まっており、それに合わせこちらの行動が決められてくる。早寝早起きという規則正しい生活スタイルは手に入る代わりに、時間に追われている感も感じずにはいられなかった。
花屋勤務を終えて改めて考える事。
時間に対する3拍子が揃った。このリズムを日々の暮らし、生き方、仕事へ落とし込みを考えたとき、私はどんな生き方を望んでいるのか?をイメージしてみた。
なぜ、こんな風に考えるに至ったのだろう?次に問いかけた疑問だ。
私が死ぬとき、私の時間は止まる。生きているからこそ時間がある。そう考えてみると、その人が持つ時間というものは、まんまその人の命であるわけで、転換すると、命=自分自身。
時間=命=わたし
この図式が成立した。
こんな落とし込みが産まれた。
私が今、大切にしているものは、私を取り囲む時空だ。時空とは、私が選ぶ時間と空間のこと。そこにはもちろん、人間関係や考え方、価値の置き方、どのような時間をどんな人と過ごしていくのか?そういった全ての事が絡んでくる。
それらを全て自分が選ぶ。生きる事死ぬこと、表裏一体の生死もまた、自分で選ぶことができる。おかれる時空を選択するということは、私が生きることを選ぶということとイコールになってくる。
自分が選んだ時空で生きていくことは、そこでの心、言葉、行動を一致させたとしても健全な繋がりしか残らない。なぜなら、安心感、心地よさ、安全さ、そういった目に見えない感覚を孕むものしか選択はしないからだ。
人の心は目に見えない。目に見えないモノこそを大切にする生き方を手に入れた理由は、花屋で過ごした年月で経験した数多くの現象のお陰だ。
空気を読む(空気は読むものではなく吸うものだぜ!)とか、周りに合わせる(周りにではなく自分に合わせるものだぜ!)とか、社交辞令(思ってないこと言ったら嘘つきになるぞ!)とか、そういった時間の負の遺産となるものは、心と言葉と行動を一致させ生きる人が、非常に少なかったからこそ産まれたものではないだろうか?
あるいは、自身の時空の選び方が分からなかったからだろうか?安心安全な時空が自身の脅威になるわけがない。(いや、安心安全も、過ぎれば脅威にはなりえるか…)いずれにしても、自身の『時』は、自身の力にもなりえるのではないだろうか?
例え言い難いこと(言い難いと思い込んでいるだけでは??)や自分の考えを相手に素直に伝えたとしても、相手に渡せるものはこちらの情報のみだ。目に見えない内側の情報を少しでも多く言語化することができたら、そこに産まれ出ずるものはなんだろう?
そんな明るい兆しが私には見えた。そして、これが、TSUKINOTSUDOiで提供していくメニューの目的となった。
素直な心を言葉で表現することが苦手な理由はなんだろう?と想像したとき、過去の自分、現在の自分、未来の自分、そんな時ごとの自分自身を凝視する時間が、慌ただしく過ぎていく日々の暮らしの中に埋没してしまっているからじゃないだろうか?