見出し画像

悲しみの尊重

「ピコンピコンピコン」
40代に足を踏み入れてから私の頭上に赤いランプが点滅し始めた。地球での滞在時間残りわずか、急いで地球から脱出だ!
そう、誰でも知る「ウルトラマン」のワンシーンを思い浮かべてくれるだろうか?

あの時から今まで私は自己を更新し続けてきた。
「命とは何か?」
「生きるとはどういうことか?」私はずっと考えてきた。
それを考えるきっかけをくれたのは祖母の死だ。
大事な人をある日突然喪失したとき、人間は生命の危機を感じるのかもしれない。時間のある点を境に私の内側には「悲しみ」が拡がっていった。

人は死んでしまうのに生まれる。
うまれることがなければ死を経験する必要もないのに、わざわざ人は生まれてくるのだ。
「なぜだ?なぜそんな非合理なことをする?」
社会には頭を使って合理的な行動を取ろうとする人間が沢山いる。
でもそもそも根本的に人は非合理的な生物じゃないか?なのになぜ反対の行動を取る?そんな疑問をずっと持ってきた。

自分という存在を初めから「無いもの」にしたい。そう願う人々がこの世界の片隅にもいるが、そう考えてしまう気持ちも分からないわけでもない。

・・・

人が生れたとき誰もが「欠乏感」をもって生まれてきたとしたらどうだろう?その「欠乏感」は死へ向かっていく自分の運命に対する「悲しみ」だとしたらどうだろう?

あの日大切な人が目の前から消えたとき、自分の中にこれほどまでの感情が横たわっていたことにとても驚いた。その感情の種類は実に様々で、その中にはかつて経験したことがないものもあった。

私の心の中にずっとあったものは一つ。
「自分を諦めたくない」それだけだったと思う。
だからこそ、痛みや苦しみを伴う自分自身への問いにも真正面から向かい続けていくことができたのだろう。
心の振れ幅が大きいと、幸福を感じるときは良いが、反対に振れたときは非常に厄介なことにもなる。

痛みや苦しみ、悲しみ、そういった感情が自分の中に生まれたとき、その感情たちを認め、受け入れ、自分を癒す時間を過ごしていくと、そこから想像力が生まれてくる。
そして、その時間を自分以外の他者にも向けようと人はするのだ。それが「優しさの原点」になるのだと思った。

悲しみと共に過ごしてきた時間はある日、莫大な量の涙を流す事で終わりを迎えた。その涙は悲しみの涙ではなく、自分を浄化し出来た余白に生まれた湧き出る命の泉だ。その泉は自分を生きる原動力にもなり、徐々に周りへ広がっていくのだろう。

私の中にずっとあった「悲しみ」(欠乏感)を追い求めてきたこの6年を終え私は今、大空へ向かって声を大にして叫ぶ。
「シュワッチ!!」
そう自分を丸ごと肯定したい。最後まで自分を諦めず、いつか必ず自分に会える、根拠もなくそう自分を信じ続けてきたからこそ辿りつけた時間だ。そして、そこに辿り着くまでに私の命を守り支え続けてきてくれた全ての命にも感謝したい。


人間の持つ命は有限だ。けれど、自己を更新しつづけることは有限の中無限にできるのだ。だから私は、「自分を決してあきらめない。」
これからも目の前に現れる一つ一つの選択を意識的に「自分にとって心地よい選択か?」それを基準にしていきたい。もし、「悪い」と感じるものならマッハで逃げ出す。それぐらい自分のことを大切にしていきたいと考えている。

・・・

なぜなら、自分を大切にするということは、自分が持って生まれた「悲しみを尊重」し、生まれたときの「欠乏感」を薄めていく選択になると考えたからだ。

まぁ、自己全否定、存在否定、自分を疑って初めて得るものがあったなら、それも悪くなかったなぁと今は思う。
もしかしたら、「狂気」から生まれるものもあるのではないだろうか?


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?