「ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力」を読んで
今日の一冊「ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力」 著者 精神科医 帚木 蓬生(ははきぎ ほうせい)
「ネガティブ・ケイパビリティ」という言葉を知ったのは、去年の春「コロナ禍における心のケア」に関するオンラインセミナーに参加したときでした。
そこでこの本が紹介されていて、読むのは今日が二回目です。
ネガティブ・ケイパビリティ(negative capability 負の能力もしくは陰性能力)とは、「どうにも答えの出ない、どうにも対処しようのない事態に耐える能力」をさします。(本文より)
思いもよらぬできごとが降りかかってきた時、私たちは「原因」を探り「解決」の方法を考え行動に移そうとします。
それで現状が打破できれば良いのですが、原因もよく分からず、方法すら見つからないことも少なくないと思います。
生前、祖父がよく使っていた言葉「にっちもさっちもいかない」という状況に耐える能力が「ネガティブ・ケイパビリティ」だと、私は解釈しました。
また、筆者は次のようにも述べています。
「能力」と言えば、才能や物事の処理能力を想像します。学校教育や職業教育が不断に追求し、目的としているのもこの能力です。問題が生じれば、的確かつ迅速に対処する能力が、ポジティブ・ケイパビリティ(positive capability)です。しかしこの能力では、えてして表層の「問題」のみをとらえて、深層にある本当の問題は浮上せず、取り逃してしまいます。 「問題」を性急に措定せず、生半可な意味づけや知識でもって、未解決の問題にせっかちに帳尻を合わせず、宙ぶらりんの状態を持ちこたえるのがネガティブ・ケイパビリティだとしても、実践するのは容易ではありません。(本文より 一部省略)
最初にこの本を読んだ時から「ネガティブ・ケイパビリティ」という言葉を思い出すたびに、脳裏に蘇ってくるできごとがあります。
渦中にいたときは、息苦しいほどの恐怖感で溺れそうだったにもかかわらず、今となれば不思議と懐かしい思い出なのです。
娘は2歳になったばかりの冬、治療のために飲んだある薬が身体に合わず、自己免疫性の疾患になってしまいました。
もともと色白なのですが、お風呂に入れて温めているのに顔も身体も不自然なくらい真っ白。厚着をさせているのに、ほんの少しのあいだ冬の外気に触れていただけで唇は紫色になり、なかなか戻りません。
「何かがおかしい」と娘の異変に気付き、すぐに総合病院の小児科に連れていきました。
こちらの訴えに対して、はじめは医師も「心配しすぎなのでは?」という反応でしたが、
出てきた血液検査の結果を見て、全ての動きが止まり言葉を失っているのがありありと分かりました。
貧血の指標の一つである、ヘモグロビンの値が5.2㎗まで下がっていたのです。
モグロビンの正常値(2歳女児) は10.9~14.2g/㎗なので、ありえないくらいの低さです。
小児科に飛び込んだのとほぼ時を同じくして、真っ白だった娘の身体がうっすらと黄色みがかってきました。
こんどは黄疸が出始めたのです。
その後、ヘモグロビン値はさらに下がって4.6g/㎗になり、幸いにも貧血の程度のわりには、食べたり動いたりできていましたが、大人ならば立って歩くことさえままならないであろう状況で、
この先いったいどこまで下がるのかと、不安を通り越して恐怖にすら感じ、薄氷を踏む思いの毎日を過ごすことになります。
娘は「自己免疫性溶血性貧血」という診断を受けました。
自分で自分の赤血球を大量に壊してしまい(溶血)その処理過程で過剰なビリルビンが生成されたため、皮膚が黄色くなってしまいました(黄疸)
治療のために飲んだ2種類の薬のうち、どちらかが原因だろうと。
医師は「今のところ、特に治療はありません。悪性のものではないですが、この先どのようになるかは、様子をみてみないと分かりません。ぐったりしてきたり、意識が無くなるようでしたらここに連絡をください」
と言って、親切に携帯番号のメモを渡してくださったにも関わらず、
積極的な治療はないとの言葉に、軽い苛立ちさえ覚えました。
私はそのころすでに十年近く病院で働いており、「だれも運命には抗えない」ことを、患者さんとの関わりを通して痛いほどわかっていたにもかかわらずです。
専門医がおっしゃるのだから、ないものはないのです。
「どうにも対処しようのない事態に耐える」しかないのです。
しかし、自分にはどうにも耐えられず、家にいる時は、狂ったように何時間も病気のことをネットで調べる毎日でした。
筆者がいうように「ネガティブ・ケイパビリティ」を実践するのは、容易なことではありません。
ネガティブ・ケイパビリティという言葉を、この世で初めて口にしたとされるのは、ロマン主義の詩人「ジョン・キーツ」(1795-1821)です。
彼は胎児性アルコール症候群であり、母親の早世や叶わなかった結婚など、苦難に満ちたその人生のなかで獲得した「ネガティブ・ケイパビリティ」の概念を美しい詩で表現しています。
筆者は、キーツを「陽のあたる喜びも、人生の深い落胆も、どちらも等しくオーケストラのような詩を奏でることにより、その能力を遺憾なく発揮した」と称賛しているほどでした。
喜びも、悲しみも歓迎する
忘却の川の藻も、ヘルメスの羽も同じだ
今日も来い、明日も来い
二つとも、私は愛する
悲しい顔を、晴れた空に向け
雷の中に、楽しい笑い声を聞くのも
私は好きだ
晴天も悪天候も、どちらも好きだ
甘美な牧草地の下で、炎が燃えている (長篇散文詩『エンディミオン』冒頭)
わたしは、彼が現実の「辛さ」も「喜び」も分けることなく融合させて受けとめ、むしろそのシンフォニーを味わっているように思えました。
この本のなかで、精神科医として「共感」をめぐる論考を重ねてきた筆者は、
「共感」が成熟していく過程に、常に寄り添っている伴走者こそが、「ネガティブ・ケイパビリティ」であるとし、
「ネガティブ・ケイパビリティ」がないところに、「共感」は育たないとしています。
アメリカでは「You are kind」が最大のほめ言葉ですが、この「親切」こそが「共感」への入り口であり、
「共感の力こそが人生を変えるものだ」と、さいごに締めくくっています。
他人にも、そして自分自身にも親切であることが、
共感への入り口であり「共感の力こそが人生を変えるものだ」と、
これから先、コロナが去ったあともずっと、心に留めておこうと思えた一冊です。
今日も最後まで読んでいただき、ありがとうございました😘
あなたの「スキ💕」がはげみになります😍
ではでは また。みなさんの健康を願って。