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音色

こんにちは。
物事には有限と無限がありますよね、有限は、まあわかる。そのうち無くなるんだなって、でも無限ってどこまでが無限なんだろうってなります。この世が終わるまで続けば無限だったら通念的な無限だけど、個人的な無限だったら無限だと思ってる人が死ぬまで続いたら無限なんじゃないかって。いや、中々意味わかんねえな。

同じヒトでも、精神的に強い人と、弱い人がいるじゃないですか、強い人は強いから何事にもチャレンジしてどんどん自分の糧にしてどんどん強くなる。でも弱い人はいろいろ怖いから基本的にチャレンジしない、どんどん鎖国になって退化するか、何も変わらないかどっちかになる。

弱い人が強い人とかかわって、いい意味で引っ張られるとき、弱いほうは怖くてたまらないんです。もちろん新しい領域に連れて行ってくれることはわかり切っているのですが、もし仮に、新しく知った何かが、自分の中のすごく大事なものになったとして、扱い方がわからないうちはいつ消えてしまうかと不安でいっぱいになるし、そうなってしまった時の絶望感に耐えられる自信がない。

想像の段階でこんなこと言ってるのは情けないのですが、今までの経験からして、うまくできなかったことのほうが多いのでひるんでしまいます。完全に自分の力不足ですが。

でも強い人には憧れます。変に考えすぎず自分の力で切り開いていけるんだろうなって。

話は変わりますが、最近自分の性癖がどんなもんなのかわかってきました。私は人を憐れむのがかなり快感になります。

どういうことかって、例えば、満員電車内で肩肘張って自分の場所を守るのに命かけてます、みたいな人がいるとすると、「あぁ、不特定多数のいる公共の場でしか自我を出すことができないんだな、日常を想像するだけで不憫だ…」と思ってしまう、みたいな。

可哀そうな人だなって思うことで自分も周りにやさしくなれるし、自分の中では完全に成り立っていることなんですよね。

ただ、そう思っている自分が誰よりも一番憐れなんだろうなと、最近になって感じます。そもそも自分の中に「憐れむ」という感情が育っていない限り、たとえ他人でもそんなこと思わないですよね。どこで拾ってきたのか誰かに植え付けられたのか知りませんが、不思議なものを持ってしまいました。

それで、最初の話に繋がるんですが、弱い自分が手にした希望をいつか落として絶望する時、最高に自分を憐れんでやるんです、至高の自慰ですよね、これだから絶望はやめられない。空腹感の次に生きてることを実感できます。

かといって絶望の中に生きていたいわけではないです、人って慣れる生き物じゃないですか。特に私は順応が早い方なので、絶望に浸って慣れてしまったらせっかくのものが勿体無いし、慣れたらエスカレートするしかないわけです。その先に待ち受けるのはもう死だけだと思います。それはまだ早い。最後の最後にとっておきたいんです。

要するに愛されたいんです、形は何であれ、その人が私に何かをしているその瞬間その人は私だけの存在になってる、何を与えてくれてもいい、不幸でも絶望でもそれは愛です。私がその人に注いだ気持ちを返してくれる、そのこと自体が何にも変えることのできない愛おしさを生みます。

愛と狂気は紙一重ですからね。

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