沁倥
こんにちは。
人と人には適切な距離、というものがあります。
もちろんそれは人によって異なってくるものですが、遠すぎても近すぎても微妙な感じになってしまいますね。
そうはいっても、関係値の浅い人に対して等、接する距離感を間違えてしまうことは多々あります。
その、間違えてしまったことに気が付いて、次に活かすことができれば、その失敗も何も無駄にはならないですが、無自覚のうちにそうしてしまって、自分の意識の外で、いつの間にか敬遠されてしまう、というようなことも人によってはよくあることなのではないでしょうか。
無自覚とは怖いもので、自分で気が付かない限り、教えてくれる人なんてめったにいないし、気が付いたころにはもう手遅れ、だなんてこともあります。
さらに無自覚であるがゆえに自分自身の無自覚さを棚に上げて傲慢な態度をとる、なんて人もよく見かけます。
これは無自覚が悪いのではなくて、自分のことをしっかり見つめられない、その人自身に問題があるのだと思います。
話は変わりますが、私は自己承認欲求が非常に高くて、まあブログを書いている時点でそれはそうなのですが、もはや他人に褒められたい認められたいというよりは、自分で自分を認められるところに行かないと納得できない、という超絶拗らせ野郎になってしまい、何なら逆に意識高いんじゃないの?みたいなところにまで来ています。
私自身も、別にそれが悪いことだとは思っていなくて、自分を認めるためになるべく多くの経験をしたいし、知識も教養も身に着けたい、と思います。
ただ勉強は嫌いなので結局自分の興味のあることしか追及できていませんが。
そもそもなぜこうなったかを考えた時に思い当たることが一つあります。
人のせいにしてんじゃねーよという感じではありますが、こればっかりは人のせいです。
何かというと、私は小さいころから母親に抑圧されて育ってきました。
それこそ距離感を独断で取り決め、自分の心地いいように接してこられたのではないかと思います。
その最たる現象があって、本人にとって都合がよかったり気分がいいことについてはとても穏やかに平常的に受け取り、逆のことがあったときには、自分の感情を押し付けるように声を荒げて相手を抑えつけてくる。
そんなの普通じゃない?と思いますか。冷静に考えてください、母親は母親なのでそれなりに大人なのであって、自制の利かない子供ではないのです。
もちろん対外的にそれを発揮しているわけではなく、しっかりと相手を選んで発動させているのです。
誰彼構わずそうなってしまう、というほうがまだ情けの掛けようがありますが、人を選んでいるということはかなり質が悪いと私は思います。
おそらく彼女にとって私は、常に自分にとって都合の良い状態でいてくれるはずのものであり、そこに私の意志などは全く入る余地もないのです。
要するに所有物なのです。
一時期は、彼女にとって最高のお人形でいることが平和への最善策だと思いその役に徹していましたが、ある時、自我の存在に気が付いてしまい、決壊しました。
そのようなこともあり、お分かりかと思いますが割と私のやることなすこと否定するタイプの人なのです。そうなったときに最後信じられるのは自分しかいないわけです。
自分で自分を認めてやることだけが自己承認欲求を満たす手段でした。
それは功を奏して、いや、奏したのかはわかりませんが、自分では周りのことに気を使えるようになったのかな、と思います。
しかし、それこそ意志というものをかなぐり捨てて生きてきたところもあるので、今改めて自分を見つめなおすと、本質の部分が空っぽで、その周りを知識とケーススタディが塗り固めている状態であるのではないかと痛感します。
知識欲がある程度あるタイプの人だったから良かったものの、そうでもなかったらいまだに、親にとっての最高に都合の良い自分を演じていたと思います。
演じることはとても大切です。逆に今までの経験があったからこそ、その場に応じて求められた人格に徹することができる能力を手に入れました。
ただそうしていると、また自分が迷子になってしまうので、こうして機会があるごとに自身を覗き自身と対話をするようにしています。
そうすることで、反省もできますし、次にどうするべきかを探ることができます。
わからないことが一番怖いです。生きていくうえでの知識が多ければ多いほどそれは武器になる。自分を守れるのは自分しかいないし、それは肉体なんかじゃなくて知識だと思っています。
わからない状態は完全に無防備であることをみんなに教えているようなものなのでとても恐ろしい。
なので聞けることは聞く。考えてわかることは考える。これが大切だと思います。
というところで話は戻りますが、人との適切な距離感を保てる人は本当にすごいなと思いますし、私もそうなりたい。
私は、自分に関係のない第三者に対しては、強く感情移入できるのですが、自分と自分にかかわる人のことはさっぱりわからなくなってしまいます。
それは、深入りすればするほど。
なんせ私は長い月日をかけて取り繕ってきた空っぽを覆う知識しかないので、本当の感情をぶつけられたときにどう対応すればいいのかわからない。一般的な対応しかできないので火に油を注ぐことになってしまうことが多々あります。
わからないことは怖いと言いましたが、これに限っては修得できるものではないのでもはや諦めてせっせと外側を厚くしていくことしかできません。
ただこれもある程度のところまでは通用するようになってきたので、進歩したなあ、と。
これで本当の意味で人の気持ちがわかる人になれたらいいなあ。
まだケーススタディの経験が必要みたいですね。
それこそ失敗は財産です。次にやっちゃいけないことが一つ知れますから。
長々と書いてしまうので一旦ここまでにします。