この世界に無数にいる主人公へ告ぐ
「主人公だって死にますからね!
誰にも例外はありませんよ。
みんな死ぬんです。」
給食後の眠い気だるい授業中に発されたその言葉は、教室の空間にぽかんと浮かんでいた。
15歳の中坊の私達は、ぽかんと聞いていた。
いつもは穏やかに淡々と話す先生だったけど、そう言う時、低いしぼり出すような声をしていた。
今日の放課後どう過ごすかで頭がいっぱいの私たちには、刺さらなかったと思う。でも、先生の声のトーンと、教室の窓枠に切り取られた曇天は脳内に残った。
◇◇◇
はたして、「昨夜のカレー、明日のパン」の物語の中でテツコが言う。
「みんな、自分は死なないと思ってるンだよね。そのことがものすごく腹が立つ。岩井さんも、魚屋さんも、会社の人も、みんな死なないと思ってる。でも、死ぬンだよ。」
夫の一樹が亡くなって七年後、恋人の岩井さんが「うっかり」テツコにプロポーズしてしまったことに対して、言ったセリフである。
◇◇◇
未読の方は心配なさらなくてもいい。
この物語は、生死に関わることを説教くさくシリアスに語る類のものでは一切ない。
「テツコ=夫亡きあとも夫の父親と暮らしている」
「ギフ=夫の父親」
「岩井さん=背中の湿布でおみくじする」
「ムムム=笑えないCA」
「師匠=山ガール」
・
・
・
むしろ、呑気な人しか出てこない。
そういう物語だったからこそ、テツコの「死ぬンだからね」は効いた。
あぁ、そうだったな。
私は中学時代からン十年の時を経て、やっと冒頭の先生の言葉が腑に落ちた。
◇◇◇
どうしてもどうしても失いたくない、いって欲しくない人は容赦なく私のそばからいなくなった。
枕を何夜も濡らして神様に何度もお願いし、治って治ってと頭痛がしてくるくらいに強く念を送り続けた人は、駆けつけるのも間に合わず明け方に息をひきとった。
どうして、今までいた人がいなくなったのに、世界は動いているんだろう?
美味しいものを食べたり、
素敵なお洋服を着たり、
節約したり浪費したり、
スローライフしたり、
パリピーになったり、
ミニマリストになったり、
というそれら情報が、発信されて洪水のように流れてきているけど、
それらを受け止めることも感じることもできない「無」になってしまうことが起こり得るのに。
自分さえもいなくなりそうなのに。
世界は欺瞞に満ちている。
その、私の思い。
その思いがテツコのセリフに強く共鳴したのだろう。
◇◇◇
前半は、この物語をトリガーにしておもてに飛び出してきた私の思いについて書いた。
後半は、この物語の作者が伝えたかった思いは何か、考えてみたいと思う。
◇◇◇
欺瞞に満ちた世界。
しかしながら、私は、欺瞞に満ちた世界を愛している。
「しょうがないなあ。しんどいなあ。つまらないなあ。わりきれないなあ。」
とぼやきながらも、私の周りに展開されていくささやかな日常を漕いでいる。
欺瞞にしか見えない一面も、立場が変わると真実でありえる。喪失と発生を繰り返しながら維持されていくこの世界の中で、生死の影が濃いところ薄いところのグラデーションはどうしても存在する。生死の影を感知する探知器を体内に内蔵している人、いない人、内蔵していても感度が高い人低い人がいるだろう。この物語を読んで思った。
呑気な人から見た世界観も、それで、「あり」だ。
この物語は、章全ての主人公が違う。
一人の人から見た喪失ではなく、色んな人からそれぞれに欠けたピースのことが語られる。
時系列も視点もバラバラで。
病をえて死にゆく母親が、こう思う。
今や、銀杏の木と自分の境目は、なくなりつつあった。モノというモノの名前が全て消え去ろうとしている。
世の中、あなたが思っているほど怖くないよ、大丈夫。
私は、この文を読んだ瞬間に、ふわりと抱きしめられたような、何とも言えない優しい暖かさを感じたものだ。
みんな居ていい。
作者の木皿泉さん(夫婦お二人で執筆)は、きっと、「みんな居ていい」とメッセージを込めておられると思う。
優しい人もズルい人もみんな主人公でみんな死ぬのだから。
欺瞞に満ちたこの世はそう捨てたものではなく、救い、兆しとしか言いようのない象徴的なパンのような小さな事柄が無数の主人公達にも必ず存在している。それを、この物語から受け取った。
生死を無いことにしている欺瞞だらけの世界だ。
だからこそ、私も、この世の無数の主人公に告げたい。
死んでしまうかもしれないけれど、
みんな、居ていいよ。