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何度でもいいんだよ


隣の家の一人暮らしのおばあちゃんが、二人暮らしになった。おばあちゃんの姉も同居するようになったのだ。二人とも夫を数年前に亡くして、それぞれ一人暮らしだった。ついにこの間、二人がそろった。二人とも楽しそうにしている。

引っ越しが終わった家に回覧板を持って行って気がついた。玄関に、今までなかった大きな号数の絵が飾ってある。引っ越してきたおばあちゃんの夫は画家だった。元の家にあった絵を持ってきて飾ったらしい。見回すと、開いている扉の向こうの部屋にも何点か目に入ってくるし、聞くと寝室にもあるそうだ。「見て見て。」と言うので見せてもらった。


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視界のとどく限り向こうの方まで続く干潟が描かれている。
太陽は昇る前で水平線の下にあるが、その存在ははっきりと感じられて空に光を放出している。空は金色と灰色のあわいでせめぎ合っている。干潟はなめらかに整っている。その泥に無数の杭が立っている。
静かな絵。
でも朝にむかってこれから動き始める絵。

私は言葉を失って立ち尽くした。

なぜなら、どの絵も干潟の絵だったからだ。


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そうか。おじさんは、生まれた時から目に焼き付いていたあの風景を何度も何度も描いてきたんだなあ。心が動いてカンヴァスにうつしとりたいと思うモチーフは何度も描いてしまうよなあ。

どの絵も同じ干潟が描かれているけれど、タッチも色あいも号数も違っていた。何より、おばあちゃんが大切に持ってきて飾ったことが素敵だなあと思った。おじさんの人となりを表す化身として毎日眺めているんだろう。

私が今書いているエッセイ。

今日思ったことをふうーっと書いているが、森羅万象、雑多な興味の中にあって心が動くポイントは重なり合っていき、同じモチーフに落ち着くのかもしれない。強く心が動いた同じことを、場所や時間を超えて何度でも書いてしまうのかもしれない。

心の中にうわーんと広がる景色。
あの時に確かにあったあの気持ち。

書いても書いても書ききれなくて、何度でも挑戦してしまう。

それでいいのかもしれない。


ハトちゃん(娘)と一緒にアイス食べます🍨 それがまた書く原動力に繋がると思います。