ニンドスハッカッカ、マー!ヒジリキホッキョッキョ。
窓から入ってくる光が、頬の輪廓を形取っている。金色の生毛は、先に行くほど白っぽくなって光る。サラサラの前髪は切り揃えられ、意志の強そうな眉のラインに少しだけかかっている。茶色がかったヘイゼル色の瞳はしっとりと潤んでいて、手元を見つめている。
隣の席のそうちゃんを観察した後、私も手元に目をうつした。
授業中なのに、絵本を読んでいた。
教科書の後ろ側には絵本が隠してある。絵本の中央の綴じ位置から右側は私の机の上にあり、綴じ位置から左側はそうちゃんの机の上にあった。私達は共犯で絵本を読んでいた。授業をする先生の声もクラスメイトのざわめきも私達の耳には届かなかった。
小学校二年生の二学期。
くじ引きが行われて、そうちゃんと隣同士になった。当時、隣同士の生徒は机をくっつけて座ることになっていた。
そうちゃんと意気投合するのに時間はかからなかった。本の虫だった私と変わらないくらい本が好きだったそうちゃん。お互いの読書歴は重なっている部分と重なっていない部分があって、試すように本のタイトルを言っては反応を楽しんだ。
「ズッコケ三人組シリーズ」
「霧のむこうのふしぎな町」
「大どろぼうホッツェンプロッツ」
「コロボックルシリーズ」
知らない本でも、紹介してしてもらった本は、図書館や本屋で後から探して読んだものだ。
よく一緒に開いていたのは、鍵っ子の男の子が家の鍵を無くしてピンチになったときに、助けてくれるおばあさんのお話。あまりにも気に入っていて二人で何度も読んだ。どのページにどんな絵が書いてあるのかも全て頭に入っている。ジャラジャラの鍵を使って玄関を開けてくれたおばあさんは、台所でご飯を作ってくれる。その食卓のシーンが大好きだった。ある日そこに好きな食べ物を書き込むことにした。リンゴ、バナナ、パフェ、ケーキ。どんどん鉛筆で絵を書いていく。最後のシーンは雪の中帰っていくおばあさんの姿。不思議なことに歩いても足跡がつかない。私たちはそこがほんのり怖かったので、足跡を黒々と争うように書き込んだ。書いたら、そうちゃんはどんな反応をしてくれるのだろう、とワクワクしながら、書いた。その絵本は鉛筆で落書きだらけになった。でも、二人だけでカスタマイズした最高にイカす本になっていった。
本の中の深い深いところまで、二人で潜っていく。先生の声も聞こえないくらい集中して。本の中を探検する。隅々まで。
🦗🐜🐝
さて、そうちゃんの魅力は本に詳しいところだけではなかった。そうちゃんと休み時間を過ごすととんでもなく楽しかった。愛読書に昆虫図鑑、動物図鑑、植物図鑑を選ぶだけのことはあって、いつもチャイムが鳴ると同時に外へ出て行き学校中を探検する子だった。
昼休みに一緒に遊びに行く時は、合言葉があった。わたしは性別が女子だったので、他の女の子との約束がある日は、遊べない日があった。そうちゃんもしかり。男の子との遊びを優先する日があった。
給食が終わる頃に、そうちゃんが私だけに聞こえるくらいの小さな声でたずねる。
─ニンドスハッカッカ?
そうちゃんの父親が酔ってご機嫌になると唱えるというフレーズだそうだ。意味は知らない。
行けるときには、こう答える。
─マー!ヒジリキホッキョッキョ。
小二の子供にとって広大な小学校の敷地は、一つの世界であった。
私たちの小学校は平屋の木造。
校舎と校舎が渡り廊下で繋がっていた。上から見ると漢字の『田』の形をしていて、中庭が幾つもあった。中庭に生えているどの植物がたべられるのか、味はどうなのかを試していった。菜種の実は半透明の緑がカプセル状の膜の中に充填されていて、何か特別な生き物の卵みたいだった。二人で描きはじめた校門から始まる学校の見取り図には、びっしりと植物の情報、昆虫の情報が書き込まれていく。
ある日の昼休み、校長室の外側の壁に、これまでに見たことのない茶色い土で出来た巣があるのを見つけた。何が出てくるのか知りたい。何の生物がこの巣を作ったのか、見張らなければならない。
私たちは、校長先生に見つからないように、ツツジの影に隠れ、そこに二人でしゃがんで、息をひそめ、観察を続けた。かなり長い時間待つ。横にいるそうちゃんの頭からは何かシャンプーのいい匂いがしていた。5cmくらいの大きさの土でできたトックリみたいな形の巣が、校長室のひさしの下にあってそこには何かが住んでいるはずだった。じっと見る。
観察のために5時間目にずいぶん遅れてしまった。
二人で教室に恐る恐る入ると、心配していた先生からもの凄く叱られた。そして、男女を超えて遊んでいることがクラスメイトにバレてしまった。そうちゃんとは、その日を境に遊びにくくなってしまうのだった。
だから、覚えている。昼休みが終わっても見続けたあの巣を。あの巣から出てきた、見たことのないカッコいい蜂を。羽が黒っぽくてシュッとしていた。
私の小学校での記憶はそこで途切れている。
その後、そうちゃんとは2度と同じクラスになることはなかった。
🦗🐜🐝
月日は経過し、中学の職員室。
テニス部の部長として、テニス部の担当教師から遠征の説明を聞いている彼。サラサラの前髪とヘイゼルの瞳は変わっていない。
一方私は、吹奏楽部を続けるのか辞めるのか音楽の教師から問い詰められて立たされていた。そうちゃんから全幅の信頼を受けていた利発な私は、そこにはもう存在していなかった。
お互いに廊下ですれ違っても視線すら合わせない。そんな二人になっていた。
とはいえ私たちは、職員室に入った最初からお互いの存在を意識していた。私は、彼が職員室を出ていくまで絶対に見ないようにしようと思っていた。
…でも、少し懸けてみることにした。
彼を見てみよう。
鈍重な灰色の事務用の机机机。黒い表紙で綴じられた出席簿や回答用紙、宿題プリント、などの紙紙紙。上下ジャージだったりくたびれたスーツだったり、モヘアニットだったりパーカーだったりと色々な格好をした教師教師教師。それらを隔てて、あちら側とこちら側で立たされている私たち。
彼は、レーザービームのような視線で先に私を見てくれていた。私はどうにか視線を受け止めた。
─ニンドスハッカッカ
─マー!ヒジリキホッキョッキョ
私たちはきちんと意思疎通した。
🦗🐜🐝
何を描きたいのかって?
初めて私に世界を見せてくれた、初恋の人の話だよ。