白いキャンバスにあなたは何を書くの
夏の間、宇多田ヒカルをずっと聴いていた。部屋の中で物理的に空気を振動させて聴く曲と、イヤホンで通勤の行きと帰りに聴く曲と、頭の中でエンドレスリピート再生されて聴く曲と。
そして、聴き続けた体験が私を豊かにし、私を助けてくれている。
🎨🖌
先日、丸腰で身一つぽんと置かれることになった。
身一つ。
音楽も、小説も、ましてや映画なんて持ち込めない。ただただ時間を過ごすだけの状況に。
そういう時、自分の頭の中のインナーワールドがどれだけ豊かなのかを思い知ることになる。私の中にある取り出せるコンテンツはなかなかに少なかった。同じコンテンツを何度も反芻して掘り下げることで、やり過ごした。
誰かがブログに「出産の長い長い道のりを進む時に、one peace を一巻からずっと頭の中で再生することで、その無限なる戦いを乗り切った」と書いていた。
それに似ている。
生まれて初めてPETCTを受検した際、目も動かしてはならないという状況に置かれた。その際、私は脳内で宇多田ヒカルを再生しつづけた。そして気に入っているフレーズとそれを書くにいたった彼女の背景とその言葉に落ち着いた経緯などに想いを巡らせたることにした。
宇多田ヒカルの精神世界は、思いのままにならず願いが叶わないという生活環境から作られていると思う。彼女は幼少期、昨日と同じ明日が続かないことや二度と会えなくなる人がいることが苦しくてどうにかしたいのにどうにもならなかったそうだ。NHKのSONGSで又吉直樹さんと対談している時にそう話していた。母の離婚、渡米にまつわるエトセトラは多感な少女時代に深く影響を与えている。
さらに、宇多田ファンの間ではポピュラーな分析であるが、彼女の夥しい楽曲において、ソングライトされているのは恋愛ではないと言われている。
ソングライトされているのは、母への愛だ。
母への片想い。
もちろんリリカルな恋の歌、という体をしている場合もあるけれど、根底にありベースとなっているのは母への片思いと考えられている。
自分を取り囲む世界が思い通りにならないのならば、いっそ自分の中の白いキャンバスに思い通りの世界を描いてしまおう。
それこそが曲であり、詩であり、物語であり、絵であり、作品なのだと思った。芸術ってそうやって生まれてきたのかもしれない。そしてそれらは各々の心を守ってくれているのだろう。何も書かれていない白いまっさらな一枚のキャンバスが心の中にあったとして、そこには無限の広がりがある。
自分だけの世界。
私も考えてみる。
原子が核を周回する様子
ホウセンカの茎内で道管を水が上がっていく様子
朝と夜とのあわいに消えかけた月の儚さ
なんて色
絶対に許さないと煮詰めに煮詰めた黒黒とした思いが、いつの間にか濾過されて凍って個体となり、心の奥深くの棚にとんとしまわれている
なんて激情
冷たさ
暖かさ
遠く
近く
極大から極小まで
🎨🖌
ということを、頭の中に浮かべて味わって過ごした。
アイキャッチ画像はこちらからいただきました。
。