昭和の左翼少女

数年前に亡くなったお袋の話です

生まれは仙台でウナギの卸や金魚なんかを売っていた商売人の娘、3つ上の兄貴と7つ下の弟の3人兄弟でおじさんの話では「俺は跡継ぎだって厳しく躾けられたけどあの人は『めんこいめんこい』ってお嬢様だったよ」って聞いた

昔のお袋の話では昭和19年産まれの戦後育ちだったから「えらく貧しかった…」的な話を聞いてたんでちょっと話のニュアンスが違った…

今思えば変に負けず嫌いで気性の激しい性格は「お嬢様育ち」って方が腑に落ちる


自分が物心ついた頃の初期の記憶は親父が国鉄職員だったから国鉄の官舎住まいで選挙になるとウチに親父の仲間が集まって酒を飲みながら選挙速報に一喜一憂する風景だった

親父とお袋の出逢いは某左翼政党の青年組織で親父がダンスサークルを発足時にお袋が参加したのがきっかけだったらしい…

太平洋戦争終戦の前年、共に1944年産まれの親父お袋の青春時代は60年安保はじめ政治の革新運動の嵐で吹き荒れていた

ジブリ映画「紅の豚」のエンディング曲なのかな?(映画は観たことなくて…)加藤登紀子さんの「時には昔の話を」な時代かな…?

親父の親父、自分の祖父さんは戦前の秋田工業卒業で国鉄に入った人、戦前の高等学校卒は今の高卒と違ってちょっとしたエリートだったらしく元々明治の頃から鉄道員の家系で祖父さんの兄貴も秋田工業卒で国鉄職員だった

線路の設計で出世コースの祖父さんは満州鉄道にもいたらしく最終的に駅長クラス迄いった人でその時代の感覚では「息子達にも自分の意志を継いでほしい」的な気持ちが強かったのだろう、親父の兄貴も国鉄の就職試験を受けたがその年の求人枠が極端に少なくいくら親父さんの太いコネでも通用せず残念ながら諦めたようだった…が祖父さんの気持ちは諦めきれずに親父が高校3年の時、東京の女性下着の会社に就職が決まっていたにも関わらず説得されて国鉄を受けたら合格してしまったらしい…

それで親父はあえて国鉄職員になったようだ…

親父は高校時代ラグビー部にいてその流れから国鉄のラグビー部に入って気持ち的にはラグビー生活の継続を中心に考えてたようだ(祖父さんも秋田工業のラグビー部で国鉄のラグビー部にもいたようでたぶん国鉄に入ればラグビー部に入ってラグビーやればいい的な説得もあったのかも…)が実際の国鉄のラグビー部はちょっと生ぬるい感じで徐々に気持ちが萎えていったらしい…

ラグビー部を辞めた親父を待っていたのは周りの先輩達の組合活動の勧誘で酒の誘いから始まる先輩方の誘いは目的を失った二十歳くらいの男の虚しさを満たしたのだろう…

それから親父は国鉄の組合運動から某左翼政党に顔を出すようになったらしい…

後にこの左翼夫婦の長男に生まれた自分は子供の頃その某左翼政党の立会い演説会に連れて行かれたことがある、なんとも独特の雰囲気で空腹を訴えた自分に親が買ってくれたのが唯一売っていたおにぎりと牛乳で米に牛乳の習慣が全くなかった自分的には気まずい記憶として今でも残っている…

そんな流れである程度の年齢からちょっとした地方エリート国鉄職員の息子として国鉄に入ったにも関わらず組合運動からの左翼政治活動に染まっていった親父とは違ってお袋はもっと以前から根っからのバリバリ左翼少女だった…

お袋さんの左翼的ルーツの話を詳しく聞いたのは割と最近で介護状態になってからそんな話になった折にペラペラとしゃべり始めた…

若い頃から某左翼政党の活動に接してたって事はなんとなく知っていたんだけどもっと深いディテールを聞かされた時はお袋の介護状態を踏まえたとしても非常に興味深った…

最初はお袋の兄貴の影響でその頃発行されていた雑誌の「人生手帖」が始まりだったらしい…

そしてその「人生手帖」って雑誌の熱心な読者から「緑の会」というグループができたようで後におじさんに聞いた話では「その時の若者たちが自分達の将来なんかをいろいろ話し合ったり…そこには某左翼政党も入ってきてたし某宗教団体なんかも入ってきてたんだ…」という事だった…

でもおじさんはそれ以上詳しい話は濁していた…
 お袋もそんな話は介護状態でちょっと意識的に健常者ではなくなってからだった…
まぁそこからおじさんとお袋は某左翼政党にスポイルされていったようだ…

ウナギの卸やら金魚売りをしていたお袋の家庭だったんだがお袋が中学生の頃?お袋の親父さんがガンで亡くなってしまう…
それまではなんだかんだちょっとは順調だった家計も急に厳しくなっていっておじさんは昼間働き夜学の高校に通ってお袋も最初は看護学校に入ったらしいがすぐに辞めて昼間働いて夜学の高校に編入したみたい…

そんな厳しい状況だから割と秀才だったおじさんも本当ならば進学校から大学って考えもたち消えて頑張ってたらしい…

その頃の某大手左翼政党はそんな苦労してた若者の味方、若い労働者の味方的なムードで浸透していったようでおじさんとお袋はバリバリの某左翼政党活動家になっていった…

おじさんが話を濁した「緑の会」からはもちろん進学やら就職で東京に流れた人もいたらしく介護状態だったお袋の話なので確信は持てないがどうも極左運動の方に流れた人達もいたらしい…逮捕されて宮城刑務所に面会に行ったなんて事も話してたけど…

 そんな諸々言いたくない事もあってかおじさんは「緑の会」の話はしたくないのかも…

まぁ…一歩間違えてたらおじさんもお袋ももしかして…なんてギリギリのところにいたのかもしれない…

親父の国鉄の職場の先輩にはおじさんやお袋と同じく「人生手帖」〜「緑の会」〜国鉄の組合運動〜某大手左翼政党の流れを同じくなぞった人もいてウチに飲みに来た時には親父をないがしろに先輩とお袋で話が盛り上がったりしたらしい


 今となっては昔話かもしれないし自分的にはもっと古い流れを意識して東欧の歴史も踏まえた加藤登紀子さんの楽曲のチョイスなんかの深さに興味があるけど1960年代の若者たちの雑誌「人生手帖」〜「緑の会」〜派生な戦後昭和左翼的ディテールとしては今ではもうピックアップされる事はないし興味はあったが全く知らない基本的な話だった

 自分的にはその後、親への反抗心やら自分の潜在的観念の打破の興奮もあって「神道」からの「保守」「右派」的思想にハマったりしたけどマルクス・レーニンからの革命思想、左翼ロマン、その時代の東欧の流れ、そして1960年代からの日本の左派的革新運動からの左翼浪漫
、まさに加藤登紀子さんの「時には昔の話を」的な人々のもうちょっと深いピュアな部分を知った気がして非常に興味深かった。


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