ちょっと思い出した楽しかった日々

今から36,7年前、昭和の最末期の事

ウチの親父とお袋は若い頃に買ってずっとローンを支払ってた今だと仙台市太白区のちょっと奥の方に土地を持っててちょうどその頃もうちょっとしたら消費税の導入が決まってこれらいろいろ値段が上がるという事でちょうど俺が大学受験だというのに「永年の夢だったマイホームを建てるのは今しかない!」と家を建てる事を決定した

結局俺の大学受験の半年くらい前にマイホームはできて引越し、しかし残念ながら俺は受験に失敗、ロック狂いで昼飯代使わずにレコードCD買ってるような奴は全く勉強が手につかなかったのだ…

その頃までウチの両親はお互いの夢だったマイホームを建てるため夜も寝ないで働く様な感じだった…親父は貨物系の国鉄職員でよく夜勤があって朝帰ってくる事も多かったんだけど帰ってきてはサッと朝飯をかき込みその足でアルバイトに行ったりしていた
お袋は永年個人でモグリの経理師をしていていろいろ融通を利かせてくれる人だったらしくなかなか人気で俺が子供の頃からひっきりなしにそろばん弾いては決算時期なんかは徹夜で仕事してたのを覚えてる

そんな感じで必死に夢のマイホームを建てたのはいいものの長男は大学受験に失敗し「浪人はしない、バンドやる!」なんていう始末…

家庭の財政はカツカツだったらしく"浪人はさせない"って言ってたのはお袋の方だったんだけどいざどこにも行き場がない状態になって涙ながらに浪人の話も出してきた気がするが俺はどう転がろうが「バンドをやる」という気持ちが強かった

お袋が先に言ってた事だったんであまり強く言えず俺の気持ちも頑なだったからなんとなく流れで"バイトしなからバンドやる"って方向に行った…お袋は泣いていたっけな…マイホームと子供の大学入学が2大ドリームだったから個人教師付けられたり俺は断ってたんだけど教材と塾のセットのセールスに入らされたり教育費にはかなりお金を使ってたけどいかんせん自分が歩んだ道じゃなかったから闇雲に金を使ってた感じだった…

親父は高卒で国鉄職員になったクチだったんで大学受験などは知らぬぞんぜずでノータッチだったな…俺が受験全滅しても何も言われなかった…逆にバイト始めた俺に協力的だった気がする…親父の働いてた貨物ターミナル駅の中の日通の引越しのバイトに入ったんで日勤の時は車に乗せてもらっていっしょに通勤したりしてたな…

しばらくして俺は日通の引越しのバイトは辞めて募集でみつけたキッチン他水回りの取り付け業者にお世話になることになる…ここは21歳の終わりに東京に上京するまで3年弱働くことになる

初めての工事現場の仕事はつらかった…ちょうどバブルの頃で建築ラッシュでペイペイは商品搬入の肉体労働を朝から晩までって感じでひどい時は脳味噌がブチキレたのか訳もないのに笑いが止まらなくなった事があった…

元気だったんだな…それでもメンバー募集の張り紙を見つけて一つ年下の生意気な高校3年生とバンドも始めた…なかなかいい感じにまとまってはきてたんだけどしばらくしてあまりに生意気だったんで辞めちゃった…

そこから俺はカオスな迷走を始める…仙台DKサービスって水周り品取り付け業者で働きながら音楽活動…たまたま久しぶりに会った高校の同級生、ヘビメタ狂いだったのがどうも様子が変わってた俺と同じく受験に失敗した口で家族の手前一応浪人生的な感じだったのかな?
 俺は高校の頃からルーツミュージック派でその頃の時代の流れは完全無視でブルースやらソウルミュージックを辿っていた、ヤツはコアなメタル狂いで早くからスラッシュメタルなんか聴いてて高校の頃は付かず離れずな感じだったんだけど再会した頃には何故だか「ブルースが…」なんて言い始めていた…ちょっとびっくりしたんだけど細かい事は忘れちゃったな…

そんな事を言うもんだから妙に話が盛り上がって高校の頃からちょこちょこギターはいじってたヤツだったんで「もしよかったらアコースティックのギターデュオやるか?」ってことになって練習しては何度か企画ライブにも出してもらったんだけどやっぱ家族の手前浪人生的な立場だったらしく「やっぱり東京の大学を受験する事にした」ってアコースティックデュオは解散…いい感じでやれてたんでアレは残念だった…

そっからはなんのツテもなくどうしようもなくて金の続く限りやたらCD漁ったりちょっとマニアックな単館映画観まくったり仙台の街をウロウロしてたんだけど今思い返すと(もう細かい事はだいぶ忘れてるけど)フツフツとしながらもなんだか楽しい思い出になってる
車の免許も取らせてもらってオンボロのカリーナが最初のマイカーだった…

ウダウダフラフラウロウロやってたんどけど21歳の頃に親父がバイト先で脚立から落ちて大怪我した…本職はその頃JR職員だったもんで厄介な事になって一悶着あった…半年程入院してたのかな?

俺もこのままではウダツが上がらないままで流れていく感じだったんで親父の退院復帰を境に東京に出る事にして金を貯め始めた…

親父はその後、後遺症なんかもちょっとあってJRの適性検査にひっかっかって退職、独立して昔からずっとバイトしてた庭師、造園業なんかをやり始めたのはいいもののやっぱりたたき上げの職人とは違って細かい事が判らずにすっちゃかめっちゃかだったらしい…

俺はその辺は気にも留めず思いのまま東京に飛び出した…ヤケクソだった…

それからの東京暮らしはかなり大変だったな…

高校卒業してから東京に出るまでの迷走3年間を妙に思い出して懐かしくて今思い返すと楽しかったな…

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