振り返れば依存体質
みんな大なり小なり多少の依存体質はあると思うんだけど自分は若干振り切る傾向がある…
元々自分の両親は左翼系の政治活動で知り合ったカップルでその息子なもんでそんな傾向のある親に育てられたって事もあるのかもしれない
主義主張、「こうじゃなきゃいけない」的な気持ちの強い親に育てられれば自分の気持ちを殺して内向的でかつ自主性がなく横着者に育つ傾向ってあると思う…自分がそんな感じだった…
子供の頃はそれでかなりツラい思いをしたり生きづらさを感じたりしてたんだけどどうする事もできずにただただ食いに走りお陰で肥満児になっていた…これが自分の極初期の依存だろうか…
あとテレビ依存もかなりだったな…お袋は口を開ければ他人の悪口だったし…親父はシラフの時はブスッとしてて酔っ払うと自慢話ばかりだったんで"楽しい家族の団らん"的な感じはなかったな…時代的に1970年代〜から80年代、昭和末期のテレビ大全盛期だったってのもあって楽しくて楽しくてテレビ無しの生活は考えられなかった…中学の頃、前よりちょっと広めのとこに引越して自分の部屋をもらった時は暗がりでちょっとエッチな深夜放送なんか必至に見始めちゃってド近眼になってしまった🤦
高校は志望校の受験には失敗して滑り止めに受験してたとこに通う事になるんだけどホントはそこの入試の成績が良かったらしく志望校の受験を辞めてそこの入学に決めていれば最近設立した特別進学コースの特待生として学費一切無料で入れてもらえるって言われたんだが親父の母校だった事もあってできれば志望校に行きたかったんで蹴っちゃったけど結局失敗して高い学費で特別進学コースに通う事になった…子供の大学進学とマイホームが2大ドリームだったお袋は志望校の受験失敗には気落ちしてたが滑り止めの特別進学コースにかなり乗り気で前にも増して「勉強させなくちゃいけない」プレッシャー増し増しで中学の頃からそうだったんだけど自分は完全に勉強部屋に追いやられた…
小学生の終わり頃からたまたま手に入ったフォークギターをボチボチ練習し始めていてそこそこ弾ける様になると外せない喜びの一つになっていた…
高校はできたての特別進学コースって事もあって色々気合い入ってて部活動なんかもやらせてはもらえなかったんだけど中学の頃から憧れてた大山倍達の極真空手にちょっとイジメられ気味の親しかった同級生が入門したってことと小学校から一緒で中学の頃に一緒に空手に憧れ出して同じく高校受験に失敗してまたしても同じ高校で同でクラスになったヤツが極真空手から独立した東孝さんが故郷の仙台でやってた「大道塾」って道場に通い始めたって聞いていてもたってもいられず親に「ちょっと空手習いに行きたいんだけど…」と聞いたんだと思う…運動音痴で肥満児だった事もちょっとは気にしてたみたいだったんで親は割と簡単に許可してくれた
物心ついた時には結構な肥満児だったもんでその事を親もちょっと心配してた様で夏休みに「肥満児教室」なんかに通わされた記憶もある…
なかなか成長期の肥満は食事制限もできなく解消しづらくて慢性的な悩みで慢性的なストレスでもあった…若い時は痩せてたお袋もかなり太ってきてた…
どうもイマイチ面白くなく子供ながらに無意識にストレスを抱えて飯とテレビに依存してた横着肥満児は妄想的に超人願望があったんだと思う
「中学に入ったら部活は柔道部に入るのがいい」なんて肥満をポジティブに考えたお袋はそんな提案してたんけど住んでる地域の進学できる中学には柔道部が無いと知ると隣の学区の柔道部のある中学に「越境入学を申し込むか?」なんて聞いてきたりした…今思えばホントに柔道やらせたいならもっと小さい頃から地域の施設やらどっかの道場に通わせる事もあっただろうからなんとも浅はかでやっつけな考えだった様な気もする…結局めんどくさくて住んでる学区の柔道部の無い中学に進んだ…
何故だかあの頃は中学に入ったら「部活に入るのは当たり前」な雰囲気があったもんで運動音痴な自分はさほど深く考えずに柔道部に何となく近い感じがした剣道部に入部した…よくわかってはいなかった…幸いな事にその頃の剣道部はあまり人気がなくてだいたい子供の頃から剣道やってた一部のエリートとなんだか判らず何となく入っちゃった組にわかれてた…最初自分らが入った時、同い年は全員さえない「何となく入っちゃった」組だった…
その時中3だった先輩の中には子供の頃からやってた先輩もいてちょっとは"ピリッ"と感もあったんだけも夏休み明けの頃には中3の先輩は部活卒業で中2の先輩の仕切りになっていた…
また一個上の中2の先輩たちも全員「なんとなく入っちゃった」組だったので部室の雰囲気は一気に緩くなった…
剣道部の部室は昔あった柔道部の部室で畳が敷いてありあの頃タイガーマスク人気からのプロレスブームに影響受けてた一部の中学生レスラーうってつけのリングになっていた…
おまけに隣がブラスバンドでありがたい事にしょっちゅうミル・マスカラスの入場曲の「スカイ・ハイ」を演奏するもんでその時の剣道部の部室では「フライング・ボディー・アタック」が飛び交っていた…
そんな中学生レスラーの影響で自分もプロレス好きになり持ち前の依存性体質からかなりプロレスにのめり込んでいった…
時代的に"巨人の星""あしたのジョー""愛と誠"などなど好きになる漫画が梶原一騎原作のものが多くてその流れもあって"プロレススーパースター列伝"なんかにもハマり"プロレス好き"から"格闘技好き"に変わっていき総合格闘技なんで無い頃の行き着く先は「大山倍達」の「極真空手」だった…
相次いで高校の同級生の空手道場入門に遅ればせながら自分も極真空手仙台道場に入門した。
憧れの極真空手って事もあってしばらく熱心に道場に通っているうちに指導員の人にも可愛がってもらいタダでウェイトトレーニングのジムにも通わせてもらえる様になった、ウェイトのジムが家の近くだったもんでめんどくさい時は道場よりもジムの方にばかり通ってりした時もあった😅
そうこうしてるうちに極真の地方大会があり"道場生はチケットをさばいてくれ"という事を言われノルマをかせられもしノルマが達成できない場合は自腹を切るように言われた…
まだ高校生で妙に純粋だった自分は"憧れの極真空手が大会のために収入のない高校生にまでチケットのノルマをかして自腹を切らせるのか"と勝手に失望した…でも真に受けてた自分は親なんかにもお願いしてなんとか適当にノルマだけはこなした…
が、失望感はぬぐえず情熱も冷めてしまい全然通ってなかった同級生を道連れに一年弱で退会した…
いっ時は随分のめり込んだ格闘技も憧れの極真空手に一年弱でも通い顔面を思いっきり蹴られ眼底出血っぽい事にもなったり…とそれなりのやり切った感と勝手な挫折感で一切未練はなくなった…
ポッカリ空いた気持ちを埋め尽くしたのは"ロックンロール"だった…
未だちょっと先のバンドブームの先駆けでパンク系インディーズブームってのがあって"ラフィン・ノーズ""ウィラード""有頂天"が三羽烏な"懐"
同級生で中学の頃から音楽にのめり込んでたヤツが中学の時の仲間とパンクバンド始めてて呼ばれてライブを観に行ったら結構いい感じで前からギター弾いてた自分的には随分とうらやましくて自分もバンドやりたい気持ちが膨れ上がってたんだけとアテは全然なくて中学の頃に何となく楽器やってるって話を聞いた事のあるヤツに連絡してみたけど「もう今はやってない…」的な返答でどうにもいかなかった…
仕方なしにギターは練習しながらハマったのはレコード収集だった
特別進学コースに通ってる手前バイトはするわけにいかなかったので昼飯抜いて昼飯代を一週間貯めて週末にできたばかりのタワーレコード仙台店に通った
いろんな反動もあってかロックに対するのめり込みはハンパなくて依存体質フルスウィングの宗教盲信状態になってしまった…さしずめロック原理主義者といった感じ…
異常なロック原理主義盲信者はもちろん勉強も手に付かず大学受験も失敗した…なんとか希望のバンド活動音楽活動もちょっとだけかじったが長続きせず仙台にはほぼしがらみ的なモノも発生しなかったので大学に進学してた高校の友達の細い細いツテだけを頼りに上京…細い細いツテをはホントに細くてとある個人的なアクシデントを界にプツンと切れた…
まぁ友達と勝手に思ってたヤツらは実際には知り合いに毛の生えた感じだったかも…
自分はなんだかんだ自分から連絡したとしても相手からはほぼ連絡されることの無い人間であんまりまともな理由では関わらなくていいタイプの様だ…
利害関係ある場合には連絡あったりな…😛
そっからは知らぬ間に完全孤独状態になってったかな…
年齢いけばいくほど人間関係は無くなっていくしね…
友達もできず彼女もできずバンドもできず八方塞がりが始まって現状打破のためもがいて何となく本屋で開運の本を見たのが何とやら…
行くあてもない状態だった…
ちょうど読んだ本ってのが神道系の宗教団体のリーダーの本だった…
かなり砕けたフィーリングの人でなかなか面白くてのめり込んでしまった
ちょうどオウム事件の後くらいだったかでテレビなんかではオカルト・スピリチュアル系はオールスルーになってたんじゃなかったかな…?
親父のお袋さん、まぁ婆ぁさんが古くからの某宗教団体に昔から入ってて子供の頃からいろいろ聞かされてたし従姉妹の不良少女が某手かざし系の宗教に入って更生したらしくその不良少女のママから流れてきたパンフレットを読んだり洋楽のロックの歌詞はキリスト教の基礎知識が必要だったりビートルズは東洋哲学思想が絡んでたしちょっと前の個人的なアクシデントっても自分的にはスピリチュアル的な衝撃(関係者にはメンヘラ事件と思われたかも…)だったもんでそれまでは興味なかった宗教系の書籍も随分と読みまくってた時期だった…
子供の頃から宗教系の関わりがあるとしたらお寺をはじめ仏教系だったから仏教系の書籍を読み漁ってたんだけど左翼系の家庭で育った人間には神道系はかなり斬新で左翼系親への反抗心もあってかまた依存体質が発動してググンとハマってしまった…
神道系の新興宗教は"出口王仁三郎"の"大本"をルーツにもつ所が多くて元々超人願望持ちの横着汚デブにはうってつけの依存対象だった…
大本をルーツにしながらも宗派によっては随分とそれぞれ独自の展開してるようで極端な方向には行かず古典的なルーツの追求みたいなとこにハマった
ただ神道はあまりにも沼だった…
いっ時は民族主義的な感じにハマったりして新右翼の本をむさぼり読んだりした…左翼家庭に育った男が右翼に傾く感じが自分的にはたまらなく楽しかった😛
民族主義にハマった時の失敗は妙に反白人主義になってしまって以前に随分買い溜めていたロックのレコードもその時かなり売り払ってしまったことだ…今思えばホントもったいないくらいレア物も売り払ったと思う…
そんなこんなでウロウロしてるうちに20代も終わりかけてたな…
もう体力的な全盛期を過ぎると若気の情熱なんかも落ち着いてきてフッと気が付けば捨てられずにいたギターを手にする事が多くなってた
「あぁぁ自分はやっぱり音楽が好きなんだなぁ…」なんて思って「バンドがダメなら弾き語りでもちょっとやってみようか」とその頃ちょっとだけ金回りの良いバイトしてたのを良い事に幾分か金を貯めてちょっと良いアコースティックギターを買った、気合い入れて昔作りかけだったオリジナル曲をまとめ上げたりして知人が出ていたアコースティック系のライブハウスのオーディションを受けてみたりしたけど経験不足もいいとこでダメだった…
状況も変わって転職したりしてボチボチと流れに身を任せてたオリ、職場の人でずっとハードロックが好きでバンドやってる人がいた、人間的には微妙な人で好きな音楽の趣味もちょっと違ってたんでそんなには親しくなかったんだけどある時気まぐれで「バンドやりたいんだよねぇ」なんて話をしたら「俺、ギターやる前はドラムやってた事あるんだよ、良かったら久々にドラムやってもいいよ」なんて言うもんだからその気になっちゃって「まぁ歳も歳だし遊びの感じならいいな」なんて話に乗っちゃった…
ベーシストはその人のバンドでメンバー募集した時に連絡してきた人、その時はバンドの色に合わないと思ってスルーしてた人がいるって事で連絡とってもらったら"ちょっと話をしてみたい"って事になって3人で会って軽く飲みに行った
まぁ年齢的に妙なこだわりよりも遊びでバンドが楽しめれば御の字だなとかなりフラットな気持ちだったんだけど現れたベーシストも純粋に音楽好きでフラットな人だった
そんで集まって話したことは「好きな音楽のジャンルはまちまちでちょっと違ってたりするからまずはロックのルーツ的なスリーコードのブルースをベースにして各々好きな様に演奏しよう」と言うアイデアだった
自分がリーダーって事で「決め事少なく自分勝手にベーシックなとこだけキープして遊ぼうよ」という感じが上手い事いっていい感じで楽しくやれた、スタジオ入るのはそれぞれ俺以外は家族持ちで仕事も忙しいんであまり多くなかったけど若い頃からの楽しみだから喜んでた気がする…
そんなこんなで勝手気ままなスタジオでの演奏も半年程したら妙にまとまってきた笑
まとまればまとまったで次の欲が出てきちゃうもんだ…当初は「スタジオで遊びで演れればそれでいいな」くらいだったもんが「ライブやっちゃうか?」ってな話が出てきた…
アマチュアバンドを食い物に商売にしてるヤツらはそこそこいて企画してるとこにドラマーが募集した、もちろん金出しゃOKで出演する事になった
もうその頃ドラマーは前に"自分のバンドにはちょっと違う"って事でスルーしてたベーシストを実際練習し始めたらヤケに気に入り出しバンドに入る様にしていた
まぁそんな事はどうでも良くて"上手くやれればいいんじゃない"と思ってた
初回のライブは録画観たけどひどかったな…笑
まぁ遊びだから"楽しけりゃいい"って事でOK😆
懲りずに"またやろう"って事になった、でもなんだか段々と我が出始めてきた…
自分のバンドにベーシストを取り込む事が決まったドラマーはヤケに2人の絆を協調し始めて"2人のコーナーを持たせて欲しい"様な事を言ってきた
"まぁ勝手にしたらいい"と思ってたOKした
元々人間的に?が付くタイプのドラマーで親しくはしてなかったってのがここにきてクローズアップしてきた
自分が真ん中にいて仕切りたいタイプなのだ…
"海に行こう""BBQやろうと"とバンドではリーダーシップ取れない代わりにやたらといろいろ言い出し始めたんでめんどくさくなってきた…
ベーシストは楽しみで続けてくれてたんだけで悪かったんだけどドラマーの対応がストレスと化してきたんで解散の意向をメールした…「そっちは二人のハードロックのバンドが始まったんだから頑張ってね、俺は一人弾き語りで古いブルースをやろうと思うんだ」ってな感じ
そんで自分は弾き語りで古いブルースを始めてライブバーや飲み屋で演り始めた…
やっぱり弾き語りはやりなれないこともあってしばらく苦戦した…
弾き語りのブルースも演ってる人は結構いてピンキリだったんだけどなんだかサークルっぽさが気になり出したのとオリジナルの弾き語りをやってる人らとの関わりもできてきて段々とそっちの方に魅力を感じて前に書き溜めてた曲も数曲あったんで徐々にスタイルをシフトしていった
何年かしてオリジナルの弾き語りにもなれてきた頃またバンド組みたくなってきた…
何人かとセッション的な事してみたんだがしっくりこない感じで「なかなか難しいよな…」なんて考えてた時フッとあいつのことを思い出した…もうしばらく会ってなくて連絡先も無くしてたからどうしてもという場合まだ連絡先の残ってたあのドラマーに繋げてもらうしかなかった…
渋々あのドラマーにメール送った…
「またバンド再結成する?」的な返事が来たが
「いや、今オリジナルのバンドやろうと思っててベーシストの連絡先無くしたから教えてもらいたいんだよね」
ちょっと感じが変わって
「んじゃちょっと話してみる」という返答だった…
ベーシストからは乗り気な返答が来たんで久しぶりに会うのとベースやってもらえるかもな気持ちで嬉しかったんだが実際会って話をしてみたらどうも一悶着あったらしい…
真ん中にいたい仕切りたがりのあいつのことだから自分を差し置いてベーシストだけを指名したのが面白くなかったらしい…二人は前のバンド解散後もずっとハードロックバンドをやってたらしいのに「もしあいつとまた演るんならもうハードロックバンドはクビ」って事にされたらしい…「べつに雇われてたわけじゃなく今までやってきたのに…なんだかあいつの本性見たわ」的な事を言ってた…
歳も30代の終わり頃でせっかくいい返事をしてくれたにも関わらず今迄の不完全燃焼な気持ちをどうしても解消したくバンド始めるにあたって自分はちょっと強気に出た…若干無理目な要求もしたんだけどそれでも彼はOKしてくれた…
仕事も忙しいのに関わらず勝手な要望にも随分ついてきてくれた…でも調子のに乗ってた俺に遂に堪忍袋のおが切れた様だった…
人付き合いの細かい所に気の回らない俺は悪気は全くなかったんだけどドラムやってくれてたヤツの気に触ってしまう様な感じで元々ドラマーのパーカッションを勝手に加入させてしまった…
いいドラマーで彼も良くやってくれてたのにその時調子に乗ってた俺はやらかしてしまった…彼は辞めていってしまった…
ベーシストもかなり気に入ってたドラマーだったからかなりガッカリした事だろう…
それでも調子コいてた俺はパーカッションで入った人にドラムをやってもらう事にして一安心していたんだけが…
妙にその新ドラマーの対応が尋常じゃない…
ちょっとの事でイライラガミガミな感じ…
何度かライブを重ねたが状態は益々悪くなる様でちょっと継続困難になってきた…
残念ながら結局解散する事にした…
後々知った話なんだけど実はその頃、その新ドラマーのプライベートはズタボロでカミさんとは離婚の話が進み始めておまけに仕事もクビになりかけてたらしい…
ほとぼりがさめて落ち着いたらまたベーシストと新しいバンドやろうと思ってたんだけど答えはノーだった…
もうウンザリだっただろう…
本当に申し訳ない事をした…
それから自分はまた弾き語りに戻った…
戻ったのはいいがなんだか今ひとつが続いた…
それでも新曲を作ったりネット配信したりして踏ん張った…かなり盛り返してきて調子も出てきた…やさき弟が「話があるから東京に行く」という事だった…
話は「お袋がパーキンソン系の難病発病して介護状態になった」という事だった…
「あぁぁ…とうとうそういう時期がきたのか…」と観念して「俺も仙台帰って面倒みるか?」と話をしたら「今迄こっちで頑張ってきたんだから無理には帰ってこなくていいよ」という事だった…
その頃はたまにしか帰ってなかったんでその年末に帰って様子を見に行った…
かなり厳しくはなってたがかろうじてトイレには自分で行けて親父が老々介護してる状況でなんとか生活してる感は否めなかった…幸い弟夫婦が隣のアパートに住んでるのが救いだった…
「コレは帰ってこないまでにしても足繁く通わないとな…」という思いを強くしてとりあえずは東京に戻った…
その頃、生活習慣病の数値がかなり気がかりになってきた自分はメディアにチラホラで始めてた「糖質制限」にハマり出す…
自己流に炭水化物と甘味類をカットし出した…どうも人間の身体は血糖が下がり出すと元々血管修復作用のLDLコレステロールを血管修復のために多めに分泌し出すらしく人によって動脈硬化が進み脳梗塞や心筋梗塞を発症してしまうらしい…タレントの磯野貴理子がそうだった…話は聞いていたんだがまたあの「依存体質」がまたうずき出しすっかり「糖質制限」に洗脳され狂信的信者になってしまっていた…
案の定ある日曜の夜、酒を飲みながらタバコにむせた拍子に右半身がかなりの違和感に襲われた…「うおぉぉ…コレはヤバい…とうとう来たか…」という感じで動揺した…がその頃、医療不信の情報に洗脳されて極度の病院嫌いになっててどうしても病院に行きたくなかった…
バカだった…今思えばすぐに救急車を呼んでいたらさほどの後遺症はなかっただろうにそのまま寝入ってしまった…
歩けない程でもなかったんでかなりの違和感と恐怖感を抱えながら「もしかしたら動いてるうちに落ち着くかもしれない」と勝手な判断で無理に仕事に行った…
不安と戦いながら2日が過ぎた…3日目仕事場の駅に降りたあたりから違和感が増して不安感に苛まれ職場に連絡して緊急窓口のある病院に向かった…
症状をドクターに伝えてとりあえずCTスキャンを撮ってもらったんだけどちょっと解らないという返答だった…が病院でドクターに診てもらってるうちに右半身は動かなくなってきた、しかし病院は個室しか空いていないということで仕方なしに翌日のMRIの予約をして動かなくなって右半身を引きずる様にして帰宅した…
翌日のMRIではくっきりと脳梗塞が発見されて緊急入院となった…その頃、東京には頼れる様な人はおらず仙台の弟に連絡した…本当に良くやってくれた…何から何までお世話になった…
ドクターには「リハビリの頑張り次第で状態は違ってきます」と云われた…その時45歳で気力はまだ充分あったしギター弾き的に「訓練次第で脳が脳回路を作る」と知っていたので早速頑張り始めた…
ただ右半身が全く動かなくなってどこまで改善できるかは検討つかない状態だったから聞かされた治療入院後1ヶ月のリハビリ入院の事とともしかしたらお袋の介護状態の事から「運命的に仙台に帰れ」という事なのかもと観念して仙台ち帰郷する事にした…
幸い必死のリハビリの甲斐あってかなり改善してきた、動かなかった右半身も随分動く様になった、仕事場には電話で状況を伝え申し訳ないが退職させてもらった…
残念ながらその頃、東京にはこの状態を伝える親しい人はほとんどなく大変迷惑をかけた、あのベーシストと弾き語りの師匠とお世話になったライブバーのマスターにだけ連絡したら3組とも御見舞いに来てくれた…ありがたさと情けなさと悔しさで涙が出てしまった…
治療入院を終えたまたま仙台の実家の近くにあるリハビリの病院にソーシャルワーカーの方から連絡と入院の予約をしてもらい住んでたアパートの掃除と引越しを弟にしてもらい仙台に帰郷した…
なんともまとめ難い自分の半生、子供の頃からロックに狂って上京して24年後に脳梗塞で帰郷する迄、強がりを言いつつも実はいつも弱さを何かに依存しては転び続けた感じでした…
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