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タニノクロウ(庭劇団ペニノ)作演出の『虹む街』に潜む、不穏なエロス

 タニノクロウ(庭劇団ペニノ)作演出の『虹む街』を観てきた。恐ろしいまでに凝り、物言う舞台美術に定評がある彼の、『ダークマスター』、『地獄谷温泉 無明の宿』に続く、タニノ版「底辺庶民のエレガンス」作品(湯山命名)の系譜に連なる作品であり、上演場所であるKAAT神奈川芸術劇場の周辺に今だ存在する昭和的ゲットー、野毛、寿町、中華街、福富町などをモチーフにした、とある古びたコインランドリーを中心とした、静かなのだけれど饒舌な群像劇である。

 コインランドリーに居続けるひとりの日本人男と、その経営者である足の悪い女の前に出没する隣人たちは、食堂を営む中国人母娘、中東からの出稼ぎ男ふたり、そして、フィリピンパブの女の子たち(キャスティングは全て外国人)。知らない国で貧乏なれど、勉強にせいを出したり、音楽とともに踊ったり、おしゃべりを愉しんだりする活力のある「庶民」である外国人勢に比べ、コインランドリーの男と女は、恐ろしくダウナーで、全身から「生きていてごめんなさい」というような諦めとそして、人権そのものが抜け落ちている感じ。

 男はひたすら、ピンクとブルーの業務用タオルを洗っては丸めて畳んで、ピラミッドのようなキレイな山をつくり続ける。その無意味な単純作業は、まるで茶の湯のような「道」の美学そのものなのだ。仕事は生きるためのおカネを稼ぐ行為ですが、その作業やシステム自体が目的化されてしまう日本人の労働感と、その一方で、外国人たちの「生きるため」のテキトーな明るく強い仕事っぷりの対比が、際立ってくる。

 こういった外国人たちの庶民の明るさは、少し前までは日本にも存在した。黒澤明や川島雄三の映画、岸田國士の戯曲にはそういう登場人物がいっぱい出て来るのに、数十年で日本からはそういった「庶民」はいなくなってしまった。その代わりに、大量に現れてきたのは、基本的にやる気がなく、「どうせ」という言葉に支配され、諦観と洗練(タオルの並べ方はもはやアートですからね)と孤立のニッポン人、つまり、この芝居のタオル男ほかの日本人なのである。

 コインランドリーのタオル男を演じるのは、タニノ作品の常連、金子清文。タニノ作品がワタクシの心を鷲づかみにする理由のひとつに、「色気たっぷりのゾッとするような美中年が、人間として、男として情けない状態で生き続ける」という、不穏なエロスがある。

 『地獄谷温泉 無明の宿』では、矮人(こびと)である父親の人形遣いの手足となって滅私奉公する息子がまさにそういう役柄。権力も甲斐性ももちろん、世間一般の男らしさもない男が、性的魅力をダダ漏れさせている、という感じはもはや、社会にとってテロ行為に近いわけだが、タニノ作品の美中年たちは、自らを去勢してしまっており人畜無害。そんな、金子演じるところのタオル男に、何やら強烈なサディズムを喚起させられてしまう。これ、実はタニノ作品の強烈な魅力のひとつなのだけれど。

 深沢七郎の小説『東北の神武たち』っぽくもある。かつての貧しい東北で長男以外は、ボロを着せられて、嫁も土地ももらえない「やっこ」と呼ばれる、次男坊三男たの生態を、独特のユーモアとファンタジーで描いた作品ですが、その作風と非常に似ている。

 今後、表現はポリコレの影響を受け、表現コンテンツはどんどん真善美の正しい方向にに行くと思いますが、そこからこぼれ落ちる濃厚かつ、心を騒がせるセンスを、タニノ演劇は持っているんですよ。

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