東北紀行 vol.4 4日目「言葉」【宮古~一関】
※この記事には、東日本大震災を文章・写真で表現している箇所が含まれますのでご注意ください。ご自身の判断で閲覧いただくようお願い致します。
こんにちは。今回は東北紀行vol.4をお届けします。
3日目の最後に宮古に到着し、4日目からはいよいよ本格的に三陸沖をめぐっていくことになります。訪れる場所は、震災の被災地が多くなってきます。
もともと、どこかのタイミングで被災地を訪れたいと思っていたのですが、(言い訳がましいですが)なかなかこれまでまとまった時間が取れず、行けていませんでした。唯一、2年前にゼミで石巻を訪れたことがあった程度で、それも1日のうち数時間滞在しただけでした。
結論から言えば、今回は宮古や陸前高田、気仙沼、そして5日目に双葉町を訪れることができました。また、列車での移動の際に車窓から見える風景も、そのほとんどが被災地でした。
そういう意味で、4日目から5日目にかけて、自然の影の部分を強く感じることになりました。
2日目に見たように、自然は人間の心に豊かさをもたらしてくれる「光」の側面があります。それは、ひとえに自然が人間という存在をはるかに超越する存在であり、人間にはなしえないことを悠久の歴史のなかでなしとげてしまう力をもっているからだと思います。
であれば、そうした自然の特性は、人間を脅かす方向にも作用することになります。それが、人知を超える災害の存在です。
自然といかに付き合い、共存していくか。人間も自然の中でしか生きられない存在であるという当たり前の事実に、大きな自然の爪痕を前にして気づかされました。
宮古市内を見て回る
自然の「影」を見る前に、まず4日目の一番初めに訪れたのは、浄土ヶ浜です。こちらは、宮古の名勝地であり、当時その風景が極楽浄土のようであったことから、「浄土ヶ浜」と名付けられたという場所です。自然の非常に強い「光」の側面です。
浄土ヶ浜までは、ホテルで借りた自転車で向かいました。バスで15分、徒歩で1時間という距離で、バスも手ごろな時刻の便がなかったため、自転車が最も便利な選択肢でした。
また、自転車で宮古市内を走る中で、宮古のまちをじっくり眺めることができました。やはり、沖の方に行けば行くほど、道路や建物がとても新しく、きれいなものになっていました。同じ地域でこれほどまでに土地の新しさが異なることは「不自然」です。被災した後に、インフラ整備などの復興作業を経て、そうした「不自然」が生じたと言えます。
そうした新しい土地を自転車で走る中で、その土地にもともとあった家や建物、道路、そしてその上で営まれていた人々の暮らしに思いを馳せざるを得ませんでした。震災を経て、そうしたものがいわば一掃され、表面的な新しさ・綺麗さが土地を覆っています。ちなみに、こうした「不自然」な新しさ・綺麗さは、その後至る所で見られました。
浄土ヶ浜
しばらくすると、浄土ヶ浜に到着しました。浄土ヶ浜では、さっぱ船という小舟に乗って、浜を周回しました。
浄土ヶ浜には、観光用の船が二種類あります。僕が乗ったさっぱ船と、もう一つはうみねこ丸という大きな遊覧船です。
船の大きさが違うので、それぞれ回れる場所が違います。うみねこ丸は、比較的大きい船なので沖の方まで出ることができます。一方、さっぱ船では、小さな船だからこそ入れる場所に行くことができます。
僕は普段こういうときは大きな船に乗ることが多いこともあって、あえて小さな船に乗ることにしました。乗っている人は、ガイドさんと、東京から来た(らしい)夫婦の方2人と僕の4人でした。それくらい小さい単位の方が、いろいろな話を聞くことができるチャンスがあります。
船では、有名な青の洞窟というところを回りました。青の洞窟は、小さな洞窟になっていて、遊覧船では入ることができません。さっぱ船だからこそ入れた場所でした。
しかも、青の洞窟は、どうやら外から見ても青に見えないようです。洞窟の中に入り、太陽の光が海水に反射したときに、青色が浮かび上がるとのことです。また、一言で青といっても、日時や太陽の角度によって微妙に色が変わっていくそうです。何度入っても楽しむことができる場所と言えそうです。
洞窟内は非常に神秘的な空間でした。そして、実際きれいな青色を見ることができました。さらに、運がいいことに海水が透き通っていたので、海の底にある白い岩も船から見ることができました。
洞窟には、自然の美の世界が広がっていました。それにくらべると人間はかなり凡庸な存在です。もちろん優れた美を生み出す人もたくさんいますが、どうやら自然の美は少し次元が違うようでした。
車窓から見える「不自然」
浄土ヶ浜で自然の「光」を堪能したのち、三陸鉄道とJRのBRT(バス・ラピッド・トランジット)を利用して陸前高田へ向かいました。
鉄道やバスの車窓から見える風景は、やはり古さの中に新しさが不自然に入る混んでいる光景が広がっていました。また、人工的な香りのする草むら(空地)もたくさん見受けられました。震災から10年以上たった今、ハード面での復興はほとんど完成しているような印象を持ちました。
よくここまで復興したなと思うと、自然に対抗しようとしてきた人間の努力に脱帽せざるを得ませんでした。一方で、復興によってむしろ災害の跡が見えづらくなっているように感じられました。そうであるからこそ、震災の爪痕をあえて残し、後世に継承する震災遺構の役割は大きいと感じました。
伝承館と「言葉」
陸前高田では、奇跡の一本松のあたりを回りました。まずは道の駅で昼食をとった後、東日本大震災津波伝承館「いわてTSUNAMIメモリアル」を見学しました。
一言で言えば、様々な展示資料に心を打たれました。当時津波が押し寄せてきたときの映像や写真は、僕が2011年当時小学生だったときにテレビで見た光景そのものでした。しかし、当時感じていた以上にはるかに強い衝撃を受けました。
小学生当時にテレビで見ていた時は、大変なことが起こっていること自体は小学生なりに理解できたものの、正直に言ってしまえば他人事でした。車や家が次々に流されていくことの意味が、まだ十分に理解できていませんでした。
津波が流したものは、テレビに映っていた車や家だけではありませんでした。人の命、またそこで営まれていた暮らしがすべて津波によって流されてしまいました。
そうした感覚は、現地に足を運んで自分の目で見てはじめて、本当の意味で得ることができたと思います。日常的に飛び交う「言葉」、自分がこれまで語ってきた「言葉」がいかに薄っぺらく、無力なものであるかを痛感させられました。
今この記事も、基本的に「言葉」で伝えようとしていますが、僕の語彙力が乏しいこともあって、感じたことと表現する「言葉」の間には、相当な乖離があります。三次元の豊かな情報が、二次元の淡泊な情報へと置換されてしまいます。
「言葉」との向き合い方についても、深く考えさせられました。
ただ、一つ言えるのは、それまで被災地を訪れていなかった自分を恥じたということです。災害を同時代に経験した日本人として、多くの人の命と暮らしを奪った経験を抜きに、これからの日本や社会について語ることに、強く違和感を感じました。この感覚は、次の日に福島に行った際により鮮明な形で現れることになります。
奇跡の一本松
その後は、有名な震災遺構である奇跡の一本松を訪れました。当時陸前高田は松の名勝として知られており、そこには多くの松が立っていました。しかし、津波でそのほとんどが流され、残った松が奇跡の一本松と呼ばれ、地域の復興のシンボルとなりました。
奇跡の一本松は、僕がもともと想定していた以上に背が高く、またしぶとく立っていました。津波でさまざまなものが流されるなかでも高く空に向かって強くそびえたつその様子は、まさに復興に向けた地域の人の心の支えとなったと思います。3日目に宮古で感じた「エネルギー」の話をしましたが、それに近いものをこの一本松から感じることができました。
一本松をベンチに座って眺めていると、隣に座っていた男の人に話しかけられました。どうやら、都内の大学生のゼミ研修の引率で来ている先生のようでした。都内の大学関係の方ということもあって、かなり親近感を感じ、お話させていただきました。秋田から一週間かけて東北を回っていること、陸前高田にははじめて来たことなどを話しました。また、研修は大学1年生がまちづくり関係のフィールドワークをしに来ていることなどを聞きました。
一期一会の出会いがあることも、一人で旅をすることの魅力の一つのように感じました。
気仙沼へ
その後、再びBRTに乗って、今度は気仙沼に向かいました。ただ、気仙沼では時間の制約と体力の限界もあって、駅から遠いところにある震災遺構を訪れることは断念し、気仙沼駅周辺を軽く散策することにしました。
気仙沼駅周辺は、これまたかなり寂しいまちでした。なかなか若い人が魅力を感じることが難しい風景が広がっていました。しかし逆に言えば、駅周辺はそこまで津波の被害を受けていないように思われました。たしかに周囲を見渡すと、意外にも山に囲まれています。
津波はまちを一掃した一方、被災地では新たなまちに向けていわゆる創造的復興が進められてきました。他方で、津波をそこまで経験していないまちは、ある意味でそうした契機を得ないまま現在に至っています。
津波による災害を肯定するつもりは一切ありません。しかしながら、そうした絶対的な負の経験が、次の新しい未来に向けた原動力となっている様子をこれまで様々な場所で見てきました。宮古も、陸前高田も、そうです。
今後、首都直下地震や南海トラフ巨大地震が発生する確率が高いとされています。地震自体を止めることは、未だ人類には不可能です。地震に対して、最大限の備えをすることは当然重要です。しかしながら、震災が作り変える新しい日本の姿についても、必ずどこかで考える必要が生じてくるように思います。少なくとも、100年前の関東大震災は関東のまちをよくも悪くも大きく変えたと言われています。きわめてセンシティブですが、こういう議論もどこかでやってみたいなと思います。
一関へ
さて、4日目の最終目的地は一関です。5日目の朝一に平泉に行くため、4日目の夜はそこから比較的近い一関で一泊しました。
一関も、お世辞にも元気があるとはなかなか言えないまちでした。ご飯を食べるにも、地元の人しかいないような少し入りづらい居酒屋ばかりで、店を探すのに手間取りました。最終的には、小さな定食屋さんを見つけ、そこで普通の中華麺を食べました。
宿は最終日ということで、少し格を上げて普通のビジネスホテルの一室を借りて泊まりました。
ただ実際には、前日に泊まった宮古のカプセルホテルと比べたときに、サービスの点で少し見劣りする点がありました。期待値が高かった分、少しがっかりしました。
しかしながら、4日目はそれまでの反省を生かして比較的早めにチェックインすることができました。そのため、最終日に向けて比較的ゆっくり休むことができたと思います。
さて、4日目を一言で表すとすれば、それはタイトルにある通り「言葉」になると思います。主に陸前高田を訪れたときに、その被災時と現在の様子をうまく表すことができる「言葉」がなかなか見つかりませんでした。そういう中で、これまで自分が語っていた「言葉」は表層的なものでしかありませんでした。
一方で、浄土ヶ浜において堪能した自然の美、とりわけ青の洞窟の神秘性などは、これまた「言葉」で表現しつくすことが難しいものです。
さて、今回サムネにした写真は、震災伝承館の見晴らしの良い丘から見た光景です。この光景を、あなたはどのような「言葉」で語りますか?(続く)