東北紀行 vol.5 最終日「帰還」【一関~福島~東京】
※この記事には、東日本大震災を文章・写真で表現している箇所が含まれますのでご注意ください。ご自身の判断で閲覧いただくようお願い致します。
みなさん、こんにちは。さて、早いもので東北紀行も今回で最後となりました。
まず初めに、前回の最後にみなさんに問いかけた問いから確認してみましょう。
もう一度再掲すると、みなさんはこの陸前高田の光景をどういう「言葉」で語りますか?というものでした。
この光景は、一見すると「きれい」な風景に見えるかもしれません。真っ青な海、水色の空、その周囲に緑色の松の木。この三拍子がなす光景は、実際とてもきれいなものです。
ただ、なぜこの場所がこういう光景になっているかを考えれば、それは津波の被害とは切り離せません。
まず、写真の下の方にたくさん見える松は、津波の被害を受けてほとんどの松の樹が流出した後に、一つ一つ再び植林されたものです。
また、右の方に見えるグレーの施設は、水門です。震災の後に、津波被害を防ぐために建設が進められ、2020年3月に完成したばかりです。そのため、非常に新しい施設になっています。
こうした意味で、この光景には「きれい」という「言葉」では済まされない様々な含意が込められていると言えます。改めて、みなさんならどのような「言葉」でこの光景を形容するでしょうか。
さて、前回の伏線も回収したところで、旅はいよいよ最終日へと入っていきます。
平泉にて
最終日の朝は、まず平泉に向かいました。中尊寺を訪れるためです。主に平安~鎌倉時代における歴史上の舞台である中尊寺は、以前からずっと行ってみたかった場所でした。
実際、定番の観光地であり、多くの人でにぎわっていました。僕の目当てであった金色堂は、中尊寺のかなり奥の方にあり、まずはひたすら坂を上っていきました。
歩くこと15分、ようやく金色堂にたどり着きました。金色堂は空調などがよくコントロールされた建物の中で大切に保管されていました。実際、金色に光り輝いており、想像していた通り非常に荘厳な建造物でした。
金色堂は平安時代の仏教芸術の一系譜をなします。今なおこうした場所に多くの人が訪れることからも明らかなように、やはり日本人と仏教は奇妙にも密接不可分であるように感じられました。「奇妙にも」というのは、多くの人が自覚的に仏教を信仰しているわけではないからです。いわば生活の一部として仏教を取り入れている日本人の姿が、そこに凝縮されているように感じられました。
これは、日本や日本人のアイデンティティを考える上で、一つのヒントになるような気がしました。ここからは、外の文化を積極的に受け入れ、発展させることが得意な日本人像も浮かび上がれば、内部に何も軸を持たない日本人像を描くこともできると思います。未来の日本を構想するためには、日本のルーツを知ることがやはり前提となってくると感じました。
東北的なもの
僕の欲張りな性格がこういうところにも出たのですが、5日目は平泉の後、電車で移動して福島県の双葉町といわき市を訪れました。夜23時前には東京に帰りたいと思っていたので時間的にかなりギリギリでしたが、なんとかすべて回ることができました。
まずは、電車に乗って双葉に向かいました。平泉から双葉まで行くのに、乗換駅として仙台駅を通ります。仙台駅に着いたときに感じたのは、もはや「東北」でないということです。
特にvol.1、vol.2で強調した、未踏の地における心許なさという要素が、仙台以降ほとんど消滅したのです。もちろん、仙台は一度過去に訪れたことがあったということもあります。しかし、それ以上に都市の文化空間が、明らかに東北的なそれではなく、東京的なものに、電車で移動する中で徐々に変容していったように思われました。
若者が多く、活気にあふれ、そしてビジネスマンたちが忙しく走り回る都会。こうした要素が仙台周辺では明らかに見られました。
また、仙台周辺を過ぎても、住宅街や田畑が広がっている光景を見たときに、なんとなく僕の故郷に近いものを感じました。これは福島に入っても同様です。誤解を恐れずに言えば、「東北」に感じた「畏れ」が、仙台以降福島に至るまで消滅していきました。このことは、僕に一種の安心感や親近感をもたらしてくれました。
双葉をめぐる
さて、JR常磐線で双葉に向かいました。双葉駅に着いたとき、やはりそこは不自然なほど新しい駅舎が待っていました。
双葉駅前には、観光客用にシェアサイクルが用意されています。このシェアサイクル、なんと使用料無料です。僕は、即決で自転車を借りて双葉を回ることにしました。
シェアサイクルで向かった先は、F-BICC 双葉町産業交流センターと東日本大震災・原子力災害伝承館です。これら2つは併設された施設になっています。
産業交流センターは、震災を経て双葉の産業を再び活性化させていくため、その拠点として設けられた施設です。双葉でビジネスを展開する会社のオフィスなどが入っています。とはいえ、1階部分は道の駅のようになっていて、観光客が自由に出入りできる空間でした。
僕も1階を中心に回ってみたのですが、驚くべきことに、ほとんど客がいませんでした。また、そこに限らず、まち全体としてほとんど外から来た人がいなかったのは衝撃的でした。
それは、前日に回った陸前高田と比較してのことです。陸前高田には震災のことを知ろうとする人々がたくさん訪れていました。しかしながら、双葉にはそうした人の数が、陸前高田のそれよりも圧倒的に少なかったのです。
同じ被災地でありながら、しかも原子力事故という未曽有の事故の被災地である双葉に、なぜ人が集まっていないのか。僕が行ったタイミングがたまたま悪かったのかもしれませんが、もし構造的な問題であるとすればその原因を突き止めて改善を図る必要があると思いました。
原子力災害伝承館
さて、いよいよ原子力災害伝承館を訪れました。こちらは、陸前高田の伝承館と異なり、原子力事故に大きく振り切った内容の展示でした。
やや見せ方が微妙な箇所も何点かありましたが、それぞれの展示を目の前にし、やはり僕の心は揺り動かされました。
原子力の複合災害を想定しておらず、「安全神話」に陥っていた国や東京電力の責任の重さ、震災当時最前線で事故収束に当たった東電、行政、土木事業者など民間事業者の努力、さらにそれでもなお事故によって日常の暮らし、あるいは命さえもが奪われてしまった人々。そうした様々な事実が、生々しい展示によって目の前に呈示された時、僕の心の琴線に触れました。
とりわけ、常設展示を出たところにあった読売新聞記者の写真集は、最初の数枚を見るだけでも、涙腺が緩みました。とてもすべての写真を見切ることはできませんでした。
一つ一つの事実や「言葉」の裏には、一人一人の命や暮らしがあることを、これ以上我々に突きつけてくる展示はなかなかないのではないでしょうか。
僕は、こうした事実を前に、来年以降行政官として働く覚悟と使命感を新たにしました。行政官の行動一つ一つが、人々の命や暮らしを左右しうるし、またこれからの未来を構想するには、とりわけ未来のエネルギーを語るには、この原子力災害を避けて通ることはできないと痛感しました。
行政官として、どのような立場にあっても基本的に災害対応は大きな仕事の一つになると思います。多くの人々の命と暮らしが懸かっているという中で、相当なプレッシャーに置かれることと思いますが、そこでどのような信念の下、どのようにパフォーマンスを発揮するかを、常に考えていかないといけないと思っています。
また、エネルギーの未来を構想する前に、あるいはそれと並行して、福島のこと、原子力のことを、必ず勉強しなければならないと思いを強くしました。「責任」というのは極めてあいまいで多義的であって、それ自体問うてみたい言葉の一つですが、少なくとも、事故を起こした当事者として、その事故について誠実に学ぶことは、最低限の「責任」の果たし方になると思います。そして、それ抜きにして、新しいことに走るのは、絶対に避けなければならないと思います。
公園予定地と帰還困難区域
伝承館の隣には、「福島県復興祈念公園」という公園が立てられる予定だということで、その公園の予定地を見に行きました。今は雑草だらけの何もない土地でしたが、ここが復興のシンボルとなると考えると、非常に心強く、わくわくする気持ちになりました。
また、帰還困難区域ギリギリのところも訪れました。当然、帰還困難区域は一般人は立ち入り禁止です。なので、帰還困難区域の前に「この先帰還困難区域につき通行止め」という看板が立っています。
これもテレビ等では見聞きしたことはあったものの、実際に行ってみると事の重みがどっしりと降りてくるような気がしました。帰還困難区域の指定や解除を行っているのも、国の行政機関です。そうした非常に重たい仕事を現に今やっている人がいて、自分もそういう人間になるのだと思うと、改めて責任感と使命感に駆り立てられると同時に、背負うものの大きさにたじろぐ感覚もしました。
いわきへ
さて、双葉の後は、最後にいわきを訪れました。実は、もともといわきを訪れる予定はなかったのですが、現在の情勢、すなわちALPS処理水の放出の開始により風評被害が懸念されているという状況を踏まえ、少しでも常磐ものを食べて応援したいとの気持ちから、わりとギリギリのスケジュールでしたが、最後に立ち寄ることにしました。
いわき駅を降りたときに、想像以上にいわき市が大きな都市であることに驚きました。若い人も多く、まち全体が活気に包まれていました。当然、ここでも東北的なものはあまり感じられませんでした。
いわきでは、駅前のショッピングモールに入っている寿司おのざきというお寿司屋さんを訪れました。これが目的と言っても過言ではありません。
というのも、数日前に、処理水の放出を受けての現役漁師の方のインタビュ記事を読んでいたときに、その漁師の方が処理水の妥当性よりも風評被害をいかに抑えるために知恵を絞るべきだと積極的に訴えており、そしてこの放出時期と併せて新たにすし屋をオープンしたと述べてあったからです。
いわば宣伝に乗せられる形ではありましたが、僕自身もこうした情勢の中で少しでも常磐ものを食べることで漁業関係者の方に貢献できればと思い、せっかくなので寿司おのざきを訪れました。
寿司は、「常磐もの七浜握り」という盛り合わせを注文しました。どうやら常磐ものを7種類食べられるセットのようでした。
七浜握りは、僕が人生でそれまで食べた寿司の中で最もおいしく、鳥肌が立ちました。純粋に来てよかったと思えました。同時に、こうした日本のおいしい味を、未来に向けて発展的に継承していくことも重要だと感じました。
寿司を一つ食べたくらいで本当に応援になったのかは分かりません。しかし、来年以降行政官として働く者として、これもある意味での「責任」を果たさずに、他の仕事に従事することはできないと考えています。
今後も、まずは「責任」の意味を考え、その上でそれを全うするために必要なことを行動に移していくよう、覚悟と使命感を持っていきたいと思います。
帰還と再出発
こうして、僕の東北一人旅はエンディングを迎えました。いわきからは常磐線でひたすら南下し、東京に戻りました。
これが物理的な意味での「帰還」です。
また、上で述べたように、仙台以南はもはや東北的なものから解放され、安心感や親近感がなんとなく感じられました。これも、文化空間的な意味で、「帰還」と言えそうです。
ただ、タイトルに込めたもっとも重要な意味は、よりパーソナルな意味での「帰還」です。
それは、僕自身、改めて行政官として働く覚悟と使命感に駆り立てられたということです。
もともと行政官を目指したのは、「日本を良くしたい」という思い、いやもっと言えば、「日本を良くしないままでは死ねない」というある意味での使命感からでした。
いつどのようにこの使命感が形成されたのかは、これまでに何度も何度も考えていますが、率直に言ってまだ確固たる答えが出ていません。中高~大学の間のどこかで、何らかの形で徐々に形成されたのだと思います。そして、就職活動ではこの思いをストレートに叶えられる場所を選びました。
vol.0で、今回の旅では自分についても考えさせられたと書きましたが、自分という存在の本質の一つは、こうした使命感のような気がしています。もちろん「一つ」にすぎませんが。そうすれば、これはある種、僕の「原点」とも言えそうです。
今回、福島を訪れて強く駆り立てられた覚悟と使命感は、五日間の東北一人旅を経て、この「原点」に僕自身を「帰還」させてくれるものでした。
さて、覚悟と使命感を新たにした今、未来に向かって再出発したいと思います。(完)