十頁,三十一分
LanPageのアルバム『ten pages』がでたぞ~~~~~~~
音楽に詳しくないけど好きだよって言いたいだけのやつです。いつもの。技術的なことは一切わからない雑魚の耳です、いぇ~い。
アルバム出るのを本当に楽しみにしていました。ack!に心を鷲摑みされていた人間でして、びっくりするくらい聴いた。おすすめの曲を尋ねられたら絶対に送るくらい色んな人に聴いてくれと懇願した。耳から流し込む哲学ってくらい一貫した強い思想を感じる。ten pagesもそういうアルバムだった。
話は逸れるけれど始めて2年くらいたつブルーアーカイブのメインストーリーをようやくまともに読み始めた。今まで何してたかっていうと可愛い女の子たちを愛でていた。ストーリー中のとある章で印象的な言葉が繰り返されている。
アルバム全体を聴いていてなんとなくこの言葉がずっとよぎり続けていた。もちろん、ブルアカ内でのその後の展開である「だからといって抗わない理由にはならない」というところまで含めて、だ。
somuniaの歌声の浮遊感、軽やかさをもって、電子音の目まぐるしさをもって、それでも伝わる、あるいはだからこそ伝わる言葉の重たさがある。耳から入ってくる情報量は多いはずなのに、あれもこれも気になるところが山ほどあるはずなのに、詞をひとつも聞き流せない。これは本当に恐ろしいことだった。この世の見え方がシビアで冷たくてそれを告げることに対して慈悲がない。そうやって淡々としているのに感情が覗いている、重たく渦巻く様さえ想起させる。どうしてそんな平然としていられるのか、とこちらが問いたくなるような凄まじさがポップさの裏にある気がしてならない。夢に出るくらい怖い、出るとしたらどんな形で出るのかは私にもわからない。
決してネガキャンしたいわけじゃない、本当だ。というか、そういうものを期待して聴いたし、通しで聴いてかなりはしゃいだ。うれしい~~これこれ~~という気分だ。他人の脳内を凝縮した何かを血管に直接ぶちこまれているというのが過言じゃないくらいキく。田舎者の私が聴くにはおしゃれで格好いい音が並んでいて、私の音楽遍歴とは幼い頃の原体験とはかけ離れたところにある音楽でそれが起きていることが最高なのだ。言葉を綴る場所なのに稚拙な表現ばかりになる己自身がその証拠だ。
つまるところ私にとってこの十頁は私もお前も誰も彼もこの世もあの世も意味なんてない価値なんてない全ては虚ろで先にも後にも虚しさだけがあるココに立っているだけだ。ということと同時に、だから何だと突き付けている。それは多分私がこのnoteのどこかで書いた気がする、表現する者の業みたいなものだ。何のために、誰のために、何を生んで、何をなくして、何を成し、悔やみ、生きて、死ぬのか、ということを見つめ続けなければならない。身悶え苦しみながら歩んでいく道そのものだ。
表現なんて言い方をしているけど、自分の気持ちを、考えを、脳内を、心を、何らかの手段を使って他人に伝えているすべての人間に当てはまるのだなと感じた。インターネットの隅っこで自分を吐き出し続けている私もだ。
冷静さと熱量が宿っている。使い方を間違えると変な食らい方をするに違いないし、だけどそうなったとしても、私の生んだ感情たちなのだから抱きしめてあげるしかないのだ。そもそも生きていくためにはその覚悟が必要なのだから。
音楽レビューかと思ったら急に人生を語るのが常套手段になりつつある。こういう人間なんですよね結局。様々を通じて自分を理解していく、結局他人のために生きるなんて無理なので。