日記:2024.03.29
黒歴史と呼ばれるものが数えきれないほどある。多くの人と同じように何者かになりたがり、それが叶わない日々を悶々と過ごしていた。コスプレをやったり二次創作小説を書いたり配信アプリでしゃべってみたりするのは全部それらの発露の結果であり、noteを始めたのだってその一部だ。
特別な何かになんてなれないことを悟っているのに、それらは積み重なっていく。これからもきっとそうだろう。
私はこれらをわりと冷静に、可愛い奴め、という目で見ている。己の痴態にもかかわらずだ。人間ってやつは、特に精神が未熟な奴っていうのは、他者から与えられる数字や言葉で自分を着飾ることでひと時の安寧を手に入れようとして、必死に自分を切り売りして、数字に縋ってみたりして、勝手にやってるくせに勝手に疲れてやめてしまって、その結果なーんにもなりやしないんだ、と。それを俯瞰で許容できる「愚かは可愛い」というオタクの文脈で生きてきて本当によかったなと思っている。
好きでやっているのだから数字は気にする必要はない、という人もいるだろう。それは己の心の在り方であって、他人から言われてどうこうというものではない。収益化がされていなかった頃のニコニコ動画でだって再生数やランキングでしのぎを削っていたのだ。そう考えるとインターネット、或いは人間の中に蔓延っている嫌儲的な思考というのは外野の理想の押し付けに過ぎない。その昔、ゲーム実況者がゲームと関係のないDVDをコミケで販売して炎上していたのを思い出す。今思えば燃えたのが不思議な事ではあったが、当時はそれくらい過敏だった。遊びの場に金を持ち出すことになんだかピリピリしていたし、利益度外視というのは今の世でも美談になりやすい。どこか仲間意識があるせいで、身内のおふざけに金銭を持ち出されて冷めた感覚になるのは容易に想像がつく。そもそも、内輪乗りで発展してきたネット文化だ。その全てを一蹴することもできない。
好きなことで生きていける時代になった。というよりは、好きなことをやり続けた粘り強い人たちのおかげでその概念が定着してきた。歌い手という言葉は歌手のなりそこないを指すものではなくなったし、ゲーム実況者が全員権利侵害をしている罪人扱いをされることもない。だけど彼ら彼女らに対する楽をして生きているという目はなくならない。
何事にもかかるのはお金だ。機材を買うのも、場所を借りるのも、ゲームを買うのも、お金がかかる。個人の趣味でやっているコスプレだって、1キャラやるのにお金も時間も沢山のコストがかかる。それを度外視することは、愛だけでやっているという証拠だという者もいるが、そういう人たちは別に、彼ら彼女らの生活を保障してくれるわけではない。
特にこう、何を言いたいわけでもなく、肯定も否定もしないつもりの日記だったけれども長文になってしまった。私はソシャゲの無課金勢も「アクティブユーザー」という数字になっていると思うし、グッズを買わずに身ひとつでライブに行く人も「動員」という数字になっていると思う。そういう意味では金銭を湯水のように使うことだけが正義で無いことも知っている。だけど、いいねひとつ、1回の高評価、創作物の売上、そういう目に見えるもので安心感を得ようとすることもまた、愛おしい人間の姿だ。記事の閲覧数やいいねの数を眺める私もそのひとりに違いない。
発信する側と受け取る側の境目が曖昧になっているここ十数年でこの辺りは目まぐるしいほど環境も変わり、様々な議論がなされている。それは暫くこの先も変わることはなくて、私はそれを見る度にあれこれ考えてなにか口を出したくなる。そうやって生きてきたし、そうやって生きていくのだと思う。この人生はくだらないし価値もないが、そもそも誰も価値のある生き方なんて出来ないのだから、誰かの人生を壊さなければ、どうやって生きていっても構わないのだ。だから年度末に職場でこんな文章を書いていてもギリ許されるはずだ。
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