この章の魅力:速度
『沼』は女の右眼に他ならず、イエスの言に従うかのように抉り出された。
無論、その右眼は魚を泳がせている。「第一夜」、『沼』を引き継ぐ作と知れる。
「鮮」を半分宛にする手捌きで「撲滅の賦」には魚が、「エピクロスの肋骨」には山羊が見える結構。
「賦」は夢を辿っている。
第一夜より「一週間」を経た第八夜に、凝と眼の中の小魚を見詰めていた自分が金魚売になって現れたように、
眼の中の「熱帯魚」も何時の間にやら「金魚」に姿を変える。そしてとうとう女が眼を睨み返して「主客転倒」、夢の裡と見事に連なる。
「私」は「金魚」KINGyo?
「お魚さん」は美奈子の眼改め金魚鉢に映る自分をうっとり眺めるばかりで、凝と睨み返す力が無い。鋭く眼差すのは恋人たる美奈子の方で、やはり女の一言から悪夢は始まるのだ。
魚失格。金魚に眼移りした美奈子の残酷にして何気ない一言が、「お魚さん」の「恋人として、魚として、詩人としての主権」を瞬く間に儚いものにして、美奈子の眼中からは「お魚さん」の姿が消えてしまう。今や「お魚さん」は魚でない。
夢と同じで女の方が眼敏い。男は後追いに甘んじる。崩れていく。
百合を求める。騙される。
「第一夜」然として女の眼の外に取り残されて魚たり得ない「お魚さん」は、須らく木に縁りて魚を求む、故事成語にある通り。世界樹「イグドラジィル」に縁りて……。
白百合、睡蓮、そしてリリオデンドロン・チューリップフェルム。「沼」に生えているという百合lilyと系統樹dendrogramとのグロテスクな交配で生まれたユリノキ属Liriodendronの樹「イグドラジィル」は、
といったような系統樹の物質化であるらしく、次と相似る。
《太陽の塔》だ。大阪万博のあった一九七〇年に完成したはずの塔の内部を、一九五五年の時点で「お魚さん」が全然知っていて、おかしい。
「放射」「胞子」とあって驚け。
きのこ雲のコラージュを書影に配する前掲の書『太郎と爆発――来たるべき岡本太郎へ』でのみならず、美術批評家の椹木野衣氏は一つの爆心地としての《太陽の塔》を随所で論じているが、世界樹「イグドラジィル」もまた密かに「胞子」を「放射」しており、塔が「見つからないんだ」と言う「お魚さん」、塔に向き合う椹木氏、一匹一人の分析の深さに何径庭無い。
夢では、断じて、ないのだ。晩夏の青々と晴れた空を映す無数の眸が見せつけられた現実だ。澁澤氏はそれを爆裂の瞬間からではなく、戦前から引き受ける。ゆえに「賦」は語るに値する。
爆心地ground zeroに、さて、「おれ」は沈潜しているのだが、
とは戯言ではあるまい。「おれ」の「憧れ」は決死のそれだ。テロリズムの行き着く一つの終点としての焼尽……いや、水底の魚と重なる、とは、クリスチャニティの極北……?
燃え盛りながら水底へと沈んでゆく晩夏、「お魚さん」は金魚鉢に身を投げるわけにも行かない。
魚でも人間でもない、何でもないものに成り下がった「お魚さん」こそ紛れもない、嗚呼、(章題)!
その晩夏より四半世紀が経ち、薔薇色の「未来都市」を喧伝して浮かれる万博広場を《太陽の塔》がぶっ貫いたまでは頼もしかった。が、黒い太陽が魚類の性根を砂浜に打ち上げられた海月みたいに干上がらせて、一匹たりとも水中都市の惨状を思い出すことができない。
塔の胎内巡りを終え、未来を謳う各国のpapillonと戯れる魚類たちを「人類の進歩と調和」なるスローガンが揶揄った万国博覧会であった。
一九六四年、SF作家の小松左京(一九三一–二〇一一)は、各分野の専門家を招いて自主研究会「万国博を考える会」を立ち上げ、後には研究会のメンバー共々《太陽の塔》制作の中心的なスタッフとして加わっている。彼が塔の地下展示のサブ・プロデューサーとして辣腕を振るう裡で書き進めた大作『日本沈没』も、人魚たちの記憶喪失の容態を測定する地震計の如く鋭敏な装置以上のものではない。巍巍たる背骨が国土を貫く極東の一国は「竜」に譬えられ、エピローグの題は「竜の死」とある。「忘却と反復」、記憶を失った人魚は〈未来学〉でもって自らの出自を探り当て、図らずも韻を踏んで水底の歌の続きを詠った。
「竜」の威信を懸けた一大イベントに「お魚さん」一行の行幸啓も在る。病状はこちらも同断で、塔の根もと即ち「時間の元点たる座標O」に居ながらも時間の樹「イグドラジィル」に気が付かないでいる。
しかしbe deceivedとbe conceived、そこで何かが生まれる。夢のような出遭いがまた一つ、美奈子と同じ声色で、
と言う。こうして《明日の神話 Myth of Tomorrow》は見つかった。岡本太郎(一九一一 – 二〇〇五)の作。眼の前に視える。
太郎が描くのは初春、「お魚さん」の幻視は晩夏のそれだが、肋骨所収の「賦」の発表が一九五五年七月のこと、ユリノキがまた化けて出た前年三月一日の一事が澁澤氏の脳裏に浮かばなかったと言う方が無理であろう。
太郎も捉えたその光景から半年を経た一九五四年九月には、幸徳秋水の『基督抹殺論』が岩波文庫で復刊を果たす。一九五一年の所謂「五十一年綱領」以後、日本共産党は議会主義を捨てて暴力革命へと路線変更を図り、党員による襲撃と抹殺が流行となり、
という「お魚さん」の語調にも、影を落とした。
と知ってのこと、クリスチャニティを通り越してサディズムにまで一挙に至りうる牢獄が日本に在り得たことを示す『基督抹殺論』が澁澤氏の眼を捉えなかったはずはない。
その抹殺の手つきに何やらん先んじている一九〇八年の『夢十夜』「第一夜」、夢の主語省略の鮮な神業を横目に、悍ましいユリノキのことを眴せする女の眼球を愛でながら、
広島平和都市記念碑に刻まれた一文中の忌諱された主語を巡っての碑文論争(一九五二- )にまで思いを馳せたというのに。
貝に成るのもしかし、無理からぬことだったろうか。時宜を得た抹殺を披露したまさしく一九五五年七月の末、党はそれまでの騒擾を十把一絡げに、一部の過激派の「極左冒険主義」がもたらした誤りとして退けてしまうのだから。それで少なからず幻滅させられたのだろう。裏切られた「お魚さん」は、ダイナマイトを『ソドム百二十日』の巻物に持ち替えて、二度と政治の話をしなかった。
とまれ、大広告の前に戻ってきたわけだ。読譜の中に突飛な年表tableが浮かび上がり、時間の樹「イグドラジィル」のか細い忌み枝を一本盗み了り、しかし、
いや、目次tableに沿って本を読むことの何が悪徳だろうね(と此処で懐から徐に本を取り出しました)、「イグドラジィル」ygdrなる巨木の一枝は小さな珍本に換わり、これは何処ぞの道具屋の所為でない、一九二〇年に春陽堂より初刊のその作品集は字味掬すべき書題を『影燈籠』kgdrという(伏す龍が見えますね)。著者は言わずもがな、目次は以下の様であった。
(第六章 おわり)