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災いと芥川龍之介 第五章 マジ死にそう literally dying
この章の魅力:病者の光学
女が男の死を告げる不気味な幻像は、翳みながらも、夢の裡に辛うじて在り得ました。その二重写しも女の眸の奥に「鮮」に見えた男の像と同じく、崩れてゆく。『沼』の底から聴こえてくる曲に誘われて入水した男の持物attributeは、暗澹たる沼に的皪と「鮮」な莟を破った「玉のやうな」睡蓮の花。
女の眸に溺れた男はいつまでも「鮮」であり得たということ。片や女の眼の外に取り残され、「鮮」たり得ない男。
「鮮」!
「鮮」であるならば死ななければならない。芥川氏が鮮に剔抉した謎めかしいこの夢の論理こそは、
或声 お前はそれでも夏目先生の弟子か?
僕 僕は勿論夏目先生の弟子だ。お前は文墨に親しんだ漱石先生を知つてゐるかも知れない。しかしあの気違ひじみた天才の夏目先生を知らないだらう。
と書かれざるをえなかった夏目先生(≠漱石先生)の「天才」の証し、欺されたと思うや否や花開く白百合ではないですが、
女の眼に誑かされれば幻視されよう魚と羊を鮮に掛け合わせて一丁上がりの宇宙の主を抹殺(っ!)して、幸徳秋水(一八七一 – 一九一一)の獄中遺作『基督抹殺論』に二年も先駆けてしまった崩魚の論理でしょう。一九〇八年の大逆事件が天下公器の『朝日新聞』にて!
『沼』、夏目と秋水の間にあっては然るべく晩夏、沼の水は女の眼という具合。百合については、口から白百合を咲かせた殉教者『じゅりあの・吉助』を「日本の殉教者中、最も私の愛している、神聖な愚人」と呼んで憚りませんでした。
彼の死骸を磔柱から下した時、非人は皆それが美妙な香を放っているのに驚いた。見ると、吉助の口の中からは、一本の白い百合の花が、不思議にも水々しく咲き出ていた。
これが長崎著聞集、公教遺事、瓊浦把燭談等に散見する、じゅりあの・吉助の一生である。そうしてまた日本の殉教者中、最も私の愛している、神聖な愚人の一生である。
あるいはその故事成語の通りに、橋の下で女を待ち続けた挙句、川に呑まれて死んでしまう男を書いた『尾生の信』もあります。
中国を舞台とする短編として他に、女の寝床を這う一匹の虱を主人公とする『女体』、死んだ女の寝床を吸血虫が這い一頻り賞味し了えた後に続く一文が、意味深長。
しかし、芸術の士にとって、虱の如く見る可きものは、独り女体の美しさばかりではない。
女は眠りに就いていて、虱がその眸に溺れることは無かったのでしょうか。女の眼がぱっちりと開くと「芸術の士」の眼もまた然り?こんな風に、夢の悍ましい裡はひそひそと囁かれるばかり。男の正体を問い詰められようとも、芥川氏、忌諱に触れるのを恐れてか、
沼にはおれの丈よりも高い芦が、ひつそりと水面をとざしてゐる。水も動かない。藻も動かない。水の底に棲んでゐる魚も――魚がこの沼に棲んでゐるであらうか。
と言い淀んで、慎重に告白を避けてしまいます。
白百合となった女の「遙の上から、ぽたりと露が落ち」、一滴の灌水はその垂直性ゆえに恩寵めきます。夢の裡でそれは男の自発的な浸礼へと変わり、baptismの語源にいっそう忠実な沈潜が、とりもなおさず弑逆を黙示する罪深いMannerismの文学です。
「空から降つて来た」『蜜柑』もまた同様の垂直性で恩寵を感じさせ、基督抹殺もとい「鮮」の殺字は開化への否とも渾然一体、解き難く意識されていたのではないでしょうか。「乱落する鮮な蜜柑の色」、その一部始終を車窓から眺めていた英吉利人は、乱落する蜜柑たちをmikanとではなくsatsuma(s)と名指したはずです。ここにmassatsuのアナグラムを見てとれるやも……。
春日と書ける文字は、二つの大日の心と知るべし。
金春禅竹(一四〇五 - 一四七〇)『明宿集』
とか書いてしまう金春禅竹も居て沿線の字件面白し(『明宿集』の資料発見が一九六四年のことであるらしく、したがって芥川氏はこの字遊びを知らなかった模様)。そして汽笛一声、線路の続く先には『疑惑』の安重根もあります。しかしカトリック信徒の彼がこの殺字をやらかすのはあり得ないので、日本のテロリスト(予備群)独自の手法といえるのでしょう。
何やらん天主を国主と分かち難い夢の住人達ですが、なにもテロリストになることを宿命づけられているわけではありません。その行為についてはキリスト信徒の立場から、例えば次、
第一に、(…)問題になっているのは、(…)[それが]他の神々を礼拝することなのかどうかということである。そうである場合には、[それを]拒否することがキリスト者の明白な義務である。第二に問題になっているのが宗教的行為なのか、それとも政治的行為なのかについて疑問があるときには、(…)。[問題になるのは]すなわち、その行為に参加することによってキリストの教会とこの世にたいして躓きをあたえ、それゆえ少なくとも外見的にはイエス・キリストを否認したかのように思わせることにならないかどうか、ということである。(…)もしそうでないのなら、参加をさまたげるものは何もない。しかし、もしそういうことになるのなら、そのときには、ここでも参加は拒否されていなければならない。
『基督抹殺論』も然り、「キリストの教会とこの世にたいして躓きをあたえ、それゆえ少なくとも外見的にはイエス・キリストを否認したかのように思わせることにな」るのは明らかです。殺字を決行した彼らですが、敬虔さを持ち合わせれば中庸たり得たのかもしれません(?)。
『沼』、その結末とは裏腹に魚は敗戦後、人間に身を窶し生き延びるので、やはり瞼の外に取り残された男のその後まで視える夏目先生の枕に如くはなし、夢見の心地は女の枕よりも、『沼』の底よりも、良いようです。といって崩魚の散文詩を矯角殺牛、現実性を損なっていて玉に瑕だと評するわけではありません。詩は追憶と革命を結び、彼岸の書を開きます。夢の変奏が次のように始まっています。
雨上がりの初夏の弱い日差が窓から差し込んで、その光の帯のなかで熱帯魚が時折きらりと全身をひらめかすと、硝子鉢はそのまま一つの大きな白々しい眼になって、同じ室内でほしいままな情事をしている私たちを睨むような仕儀になるのでした。
(第五章 おわり)