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夕焼け

(2022/10/11 日記)
写真はいつかの有馬記念後の中山競馬場 
kyosera samuraiのハーフフィルム

美しい夕焼けを見て、一日の終わりの予感を感じるとき、その夕焼けを、いつか見たように感じることがある。
いつかどこかでこの景色を見た。
正確には、「この感じ(夕焼けを見たときの何かが往く、去ってゆく、何かが終わるという予感)」を、私は知っている、と感じる。ずっと昔から。
見たこともない景色や世界を思い浮かべるときも、同じようなことを思う。

理由もなく私たちが在り、そして去り往くこと。
二度と還らないということだけが確かだということ。
そんな、ただ当たり前であり、とんでもなく残酷に思えるようなことを、いったいどれだけ人類は繰り返してきたのだろう。
いったいどれだけ、人類は夕焼けを見つめたのだろう。
一日の終わりを、自分の死を感じたのだろう。
決して二度と戻ることのない生命を、その不思議さを、何度数えてきたのか。

私が夕焼けを見つめているとき、
私はもはや私ではない。
私は人類という大きな眼で夕焼けを見つめている。
あの日どこかで夕焼けを見つめていた彼は私だった
あの日どこかで夕焼けを見つめていた彼女は私だった
すべてが去り往き、二度と還らないという事
存在せしめられた者たちの、ただその一点において私は彼となり彼女となる

人類の記憶はあると思う。
私たちは生まれ、去り、そして繰り返す。
懐かしい人類の記憶を辿っている。

もう存在しない見知らぬ誰かの記憶をも感じてしまう
恐ろしいほど澄み渡った感受性
宇宙の果てまで見えてしまいそう
絶句。

夕焼けを目の当たりにして自分の死を想う、
この存在の謎を想う
夕焼けに人類の歴史が見える
この瞬間に永遠を感受する
永遠は確かに在るのだと深く納得する

あの日の彼も、彼女も、この世界の秘密を知った人々は皆、絶句せざるを得なかった
息をのむ音が宇宙に吸い込まれてゆく

すべてが去り往くことはかなしいのだろうか
かなしいだけではないと思える
何もかもが一度きりの奇跡であるということ
やっぱり私は、何かの約束を果たしに生まれてきたような気がする。

わたしとは、わたしたちである
精神性において。

今日が人生最後の日かもしれないことも、
次の一瞬なにもかも消えるかもしれないなんてことも、
もう二度と会えないかもしれないことも、
どれも当たり前で前提なのだ。
そうだからといって悲しんだり、怯えたり、恐れたりするようなことではないのだ
そういう世界が本当の世界なのだ、
私たちが生きていると言うことは、そもそもがそういうことなのだ。何があってもおかしくない。

生まれてきたから死ぬまで生きる。
そういうことだ。

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2年前の日記。熾火のように世界を感じ、考えていた。

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